他人事倉庫

他人事の長文置き場です。

舞台・魍魎の匣感想

最初にケンチさんの話します。

魍魎の匣の話は約1000字位後に始まるので、そっちが目当ての人はいい感じにスクロールバーをスクロールバーして下さい。

 

私、LDHにおける最推しは劇団EXILEでして、基本的には芝居コンテンツを主食にして生きています。

ライブは殆ど行かないのですが、お友達がセカンドさん推しなので、そのご縁でセカンドさんのライブやEXILEライブに行かせて頂き、その度に「ライブって楽しい! いえーー!!」みたいなニワカ丸出しの慣れてないはしゃぎ方を披露して、フラッグをぎこちなく振ったり、タオルを小刻みに揺すったりしているというのが私の生体です。

音楽に対する執着が薄く、学生時代に罹患した厨二病が一向に治る気配のない私からすると、EXILEの音楽は沼に落ちてからも積極的に聞きに行く事はなくって、私はどの沼においても何より『物語』を求める人間なのだなと自覚を深めている次第な今日この頃。

 

そんな私にとってケンチさんとの、最初の出会いはケンチマンだった。

 

ていうか、ケンチさんが私の世界にはいなくて、ケンチさんはケンチマンだった。

同年代の人の中には絶対同じ種族いると思うんだけど、学生時代に放映していたEXILE冠番組を何気なく眺めてて、私は今でこそEXILE及びTRIBEメンバーが笑いながら手を叩き、何かっちゃあハイタッチしあい、握手を求めあう姿を見ても、動画サイトの子猫チャンネルを眺めてるような表情を浮かべている訳だけど、当時は今ほど血中濃度の中目黒成分が高くなかったせいで、兎に角、彼らのはしゃぎ方が余りに私の住む国では浸透していないやり口だった事もあり、有体に言えば好きじゃなかった。

苦手意識を抱いていた。

なんで、あんなにいちいち大袈裟に仰け反って、手を叩いて、内輪同士の盛り上がりで周囲を威圧するのだろうと、震え上がってもいた。

だから、その日もチャンネルはすぐ変えられる筈だったのに、偶々私が付けた瞬間にケンチマンが画面の中にいたのがいけなかった。

なんか、痛快だったんですよね。

私が、そうやって勝手に怯えて、こういう人達は私をきっと傷つける人達だと勝手に警戒心を抱くような相手に、ケンチマンは一人で突込み、素っ頓狂に高い声で適当な事を言い、無暗に走り回り、飛び回り、彼らを振り回し、やりこめていた。

ケンチマンの言動に戸惑ったような表情を浮かべ、常識的な言葉で諌めようとするEXILEの皆さんを見ていると、何だか『怖いな』って感じてたメンバーの事まで、どうにも憎めなくなってきて、その位私が苦手に感じているような人種を、好き勝手に翻弄するケンチマンの姿は爽快で、余りに面白くって、私はお腹を抱えて笑い転げていたのです。

その結果、忘れもしない。

その時期は夏場で、私はお風呂上がりにスイカバーを食べていたのですが、面白すぎて呼吸が巧く出来なくなって、スイカバーの種が逆流し、鼻からスイカバーの種を産む事になりました。

 

泣いた。

あんまりにも痛くて。

 

これから夏が来るから、みんなにはスイカバーの種は鼻から産むにはそこそこビッグベイビーって事だけは今回覚えて帰って欲しいのだけど、リビングでひゃーひゃー笑い転げてた娘が、突然鼻を押さえて「い゛だい゛!!!」と濁音で騒ぎだす様子を眺めていた両親も、その時代にはそこまで浸透していなかったから『藤原竜也かな?』とか思う事も出来なくて、戸惑ったろうなとは理解してる。

 

んで、やたらめったらに鼻が痛かったせいで、ケンチマンとの出会いは私の中で物凄く強烈な思い出となっているのだけど、そう私は、ケンチマンに鼻にスイカバーの種を孕まされた女…とかド&ヤ・フェイスを披露したい訳でもないし、そんなエピソードを披露してもどんな顔していいか分からないよ…ていう読んでる人の気持ちも、どんな顔して欲しいとかそういう展望は一切ないよ!という私の気持ちにも気付いてない筈もないわけで、何が言いたいのかと言えば(そして、ケンチさんについて冒頭千文字くらい書いたら魍魎の匣の感想突入してますとか書いておいて、もう、千五百字越え! 私の感想文は枝葉が多すぎる!!)ケンチマンは間違いなくEXILEで一番最初に推したオトコなんやで?という事だったりするのです。

 

まぁ、正味な話、ケンチマンとEXILEがイコールで繋がってなくて、暫くの間はハチャメチャにテンションの高い、怖いもの知らずのハーフの芸人さんて思うてた私ですけどね!

気付いた時は、「この人が、キレッキレの踊りを?!」という、そのトンチキ具合からのギャップに新鮮な驚きを受けてから幾星霜…

 

おかあさん、おとうさん、私はそんなケンチマンの中の人が京極堂を演じている魍魎の匣を観劇しに神戸に出来た2.5次元専用シアターにまで赴いています(宇宙猫顔)

 

凄い、飛躍!

自分でも「脈絡?!」ってなってるし、ここに辿り着くまでの道筋が複雑すぎて初代ペルソナのラストダンジョンぐらい面倒くさいので、追憶とかすらしたくないんですけど、兎に角ハイローや、全部ハイローが悪いんや!で察して頂いて、私は神戸の地に呆然と佇んでいたのでした。

 

大体、あれや。

古の文系オタク女(高校・大学共に文芸部の部長)なので、90年代後半から2000年代初期にかけて流行した新本格派と銘打たれた「無茶しか詰まってない」と頭を抱えたくなるようなトリック連発の推理小説は一通り嗜んではいるのです。

京極夏彦に関しては「どすこいの初版持ってます」でお察し頂戴したい程度に傾倒していたわけで、そんな学生時代の私に「お前の鼻腔にスイカバーの種を孕ませた男が京極堂を演じるぞ」とか伝えても、ロゼッタストーンなしでヒエログリフ解読しようとする程に訳の分からない状態に陥るだろうし、よく考えなくても例えロゼッタストーンを所有していてもヒエログリフを私が読み解ける筈はないので、徹頭徹尾訳が分からないという、そういう状態に陥ってしまったのでした。

 

神戸は、何度か行った事あるんです。

毎回観劇絡みで、ハコは決まって神戸aiiaの前身である、オリエンタル劇場だった。

ラーメンズの公演とか、キャラメルボックス(涙)の公演をオリエンタル劇場で観てて、いい劇場だなって思ってたので、2.5次元専用のシアターになった事に対しては、正直複雑な気持ちを抱いてる。

東京にあったaiia劇場の事をプレハブ小屋と呼んで憚りない、そんな私でもあったし、aiiaと聞くと反射的に顔が紀州梅を口に含んだみたいな表情を浮かべてもしまうからね。

ババァなので、ババァっぽい事いいますけど、私がお芝居に足を運び出した頃に比べれば、演劇界隈を取り巻く状況が変わったんだなって思う。

2.5次元系のお芝居がこれ程までに隆盛を極めている状況は、同時に良質なコンテンツが作られるようになってきたのだという証左となる事も理解はしている。

そして、私がハイローのせいで嵌った沼は、とても2.5次元コンテンツとの親和性が高いのだろう。

それでも、趣味嗜好ががらりと変わる筈もなくNOT for MEな代物であるという印象を2.5次元系には抱いてるし、当然2.5次元専用シアターで上演される魍魎の匣も、原作を好んでおきながら私の嗜好に合ったモノは観られまいという覚悟を抱いて劇場に赴きました。

 

まぁ、チケットは二回分確保したんだけどね!

だって、ケンチさんの京極堂は、ビジュアルゴイスーに違いねぇから、ライブで拝んでおかねぇと!っていう、それだけに欲望の的を絞った決断だったのよ。

 

で、結果的には大当たりでした。

大当たりどころか、めちゃめちゃFor MEな案件に劇場で興奮しながら小刻みに震えました。

何しろ、私ババァなのに厨二病というこの世においても相当厄介ランキング上位に君臨する種族ですので、京極堂シリーズを好きなのも兎に角不道徳に、人間が世界観を構築する為の材料として命を凄惨に消費されていく様が大好きで、舞台であの酸鼻でたる事件をどう表現するのかしら?と一番不安に思っていた部分を、役者・演出・ホンの三位一体の取り組みにより血飛沫も銃声も一切ないまま、匣の中に少女が人体をバラバラにされて詰め込まれるなんて事象をむざむざと見せつけられた事に感動してしまったのでした。

おぞましさを舞台で見せる手腕の凄さを私はもっぱら長塚圭史さんとか、ケラさんとか、松尾スズキさんのようなパワーこそ力!みたいなストロングスタイルな演出に見出してきたのだけど、綺麗で無機質なこういうやり口ってのは初めてで、ああ世界は広い!とか目を開かされつつ、ハレルヤを聞く心地で久保竣公の慟哭を、切り刻まれる少女の独白を、匣の少女を見せびらかす雨宮の恍惚の声に胸が高鳴らせた。

分かり易くおぞましさを視覚的に示すのではなく、あくまで圧倒的な物量の言葉で示した姿勢には原作に対するリスペクト以上の、何処か偏執的な執念のような物すら感じられて私は「かくあるべきだ!」と手を打ったし、多分この先も原作がある舞台を観る度に「かくあるべきだ!」と魍魎の匣の事を思い出すような気が致します。

 

上演時間が、2時間15分っていうのも、天才的に素晴らしいですよね。

人間がじっとしたまま集中していられる時間って、せいぜい二時間が限度だと思うんですけど、これがほんとに超良い塩梅で、あの長編をよくもまぁ、この時間にまとめたものだって、何度でもブラボーを送りたい。

フラットでセットのない素舞台に、可動式の箱や枠を配置したりはけさせたりする事で空間を切り取り、シームレスに時間を経過させ、空間を変え、場面の転換をやってのける。

この方法でスピーディに物語を進めていく手腕は見事としか言いようがなくて、台詞の速度も展開の早さもこれまで観た舞台の中で一番!と断言できる速さなのに、ついていけなくなる事は一切なく、観客の理解を上手に促しながら物語が進んでいく仕様は素晴らしいとしか言いようがないのでした。

相当綿密に考えられてると思うんだよな。

脚本も演出も。

 

あとキャスティングな!

もう、キャスティングが…凄い…キャスティングがハーバード…

全員天才やった。

一人として「イメージとちゃう!」なんて私に言わせてくれなかった。

異種格闘技戦の如く、色んなジャンルから集まった猛者たちである事は後々パンフを読んで知る訳ですが、キャストが正統派のベテラン俳優から、イケメン人気俳優に2.5次元系の役者さんと元・宝塚トップスターにアイドル女優まで、しかも主演がEXILEとくると「闇鍋!!!」と叫びたくなる程のごった煮具合なのに、全員が痺れる位に原作通りのキャラクターになっていやがって、ほんとマジ世界は広いし、私の視界は狭かったんだな…と打ちのめされる他ないわけなのです。

皆さん巧い、巧くないとか俎上に上げるのも失礼なレベルで、自身が演じてるキャラクター特性を2時間15分という分厚い原作をギュッとZIPファイルレベルに圧縮した物語の、当然短くなってる出番の中で過不足なく見せてくれて、職人だ…これ、もう役者職人達の仕事だ!と確信。

大体、こういう緻密で原作ありきの世界観を表現する際に必要なのは、『気持ち』とか『情熱』とか『魂』そういうのよか、技術や台詞の間合いを正確に測れて自分自身の演技を俯瞰で見れる冷静な視点な訳で、そういう意味において役者全員が全員、観客ファーストな職人役者に徹してくれていた事にマジ感謝な訳ですよ。

観客は金を払うという役割を果足す事によって、舞台の世界観の構築に加担させて貰っているに過ぎない存在であるという認識を常日頃から抱いている私なのですが、それでも尊重されると嬉しいし、尊重してくれない役者の芝居よか観客の方を向いてくれてる芝居をする役者の芝居のが観たいのも人情な訳で、その点今回の魍魎の匣キャストの皆さんは観客の…それも殊更に『原作ファン』の観客の方を向いて芝居をしてくれてたなと思ってます。

 

ケンチさんとかさぁ! 酷くない?! ちょっと、もう事前に言っておいて欲しい。

当方、顔が国の異形文化財レベルに宝物ですが京極堂に徹してますって、ちゃんと言って欲しい。

こちっとら目が潰れる覚悟で劇場にinしとる訳ですよ。

顔が良すぎるから! きっと目を潰される!って怯えて劇場入りしてる訳ですよ。

実際、熱い光を浴びるライブでうっかり誘ってくれたお友達が最前の席を引き当てた時、私達の目の前に岩田ガンちゃん様とケンチさんという「手加減してくれや…な?」と神様に祈りたくなるような顔面が美の暴力な二人が配置されてしまった際には目を潰されましたし、暫く視界がゼロみたいな美にやられた状態になりました。

ケンチマン世代の私からすれば、ハイローの二階堂さんに驚き、顔が全人類が驚嘆レベルに良い事に驚き、中の人のゆるふわ絵文字ユーモアおじさんなトコに驚き、そして見事な京極堂っぷりに驚かされるというね!

もう、いい! もう、お前に対する驚きは沢山だ! 分かるだろ? 俺の気持ちが。 今の俺に必要なのは安心して眠れるベッドと、寝酒に相応しい量のウィスキーだけ…つまり、安心ってやつをお前から貰いたいんだよ…というような気持ちをケンチさんに抱いているし、実際京極堂としてケンチさんが出てきた時には、そのまま自然にケンチさんの事を京極堂として受け入れている私がいて、観劇後に「やぁやぁ、大変に面白いものを観た! これは私にとって革命に等しい観劇体験だったなぁ! 何しろ演出・脚本・役者が全部良かった。 特筆するなら、京極堂の顔が、震撼に至らしめられる程に良かった…な…え? 顔が…いい? 顔がいいとか単純な言葉で表現する事の許されない美が舞台上に存在してなかった? え? 嘘、なんで今の今まで気付いてないの? ていうか、私の目が潰れてない理由が見つからなくない?」と遅効性の毒が効いてくるみたいに気付きを得るという体験をさせて頂きました。

 

実際一回もケンチさんが京極堂である事に違和感を覚えなかったもんな。

いや…、嘘つきました。

木場修演じる内田さんに「えい!」と突き飛ばされて、綺麗にコロンって転がったケンチさん観た時には「いやいや、嘘やろ? 間違いなく、内田さんよかフィジカルお強い人ですよね? 体幹の鬼ですよね? なんやったら、『フン!』って胸板だけで弾き飛ばせる人ですよね? ていうか、転び方が綺麗すぎて、明らかに鍛えている人の転び方なので、こんなにハラハラしない舞台上での転倒シーンも初めてだぜ! ありがとう、ケンチさん! ありがとうEXILE!」と、京極堂の中の人がEXILEである事を思い出したりはしたのですが(魔術ステップは、確かに美しかったけどダンスとはまた違う所作だったので、そこまでEXILEを感じませんでした)その他は、完璧に京極堂でしたもの。 

 

ケンチさんのお芝居生で観るの初めてやったけど、本当に得難い位にあの人しか出来ないお芝居をされてて、ケンチさんの京極堂はとてつもなく良かったのです。

 

芝居が崩れないとこ。

台詞に淀みがないとこ。

感情の振れ幅を極小に抑えた上で、この人がブレない支柱であるという事を思う存分思い知らせてくれるとこ。

 

そして、人を誑かす悪魔のような所業を見せる際の妖艶さ。

 

こんな男に呪われたら、まともに生きてくなんて出来やしないと思わせる程の、真夜中にしか咲かない花が開く瞬間を目の当たりにさせられたような、あの美しさには私は頭のてっぺんからつま先まで電気が走ったみたいになってしまって、こんな風に美しく人を呪えるだなんて、最早因業としか思えないなんて、どうにも哀しくすらなってしまったのです。

 

こういう役者さん観た事ないって思ったんですよね。

役に対する説得力の在り方の場所が違う。

この人が京極堂を演じているという事に、『ありがたみ』を生じさせている。

そういう観た事ない人を私は観てたのです。

 

EXILEとしてのケンチさんは、その言動を見てるととても陽気で、明るくて、思いやりがあって、会社の精神の沿う考え方と性質をした真っ直ぐな人であろうと思うのですが、どうにもいけない。

あの人の外見や、あの唇から出る言葉の音が、全部今回のような陰惨で、凄惨な場所が似合い過ぎていて、望んだ場所ではない場所で大輪の花を咲かせてしまう人なのかも知れないなんて、勝手に切なくなってしまったのです。

 

最後の台詞あるでしょう?

 

幸せになる事は簡単な事だって。

 

「人である事を辞めればいい」って。

 

私は凄くストンと腑に落ちるんです。

何しろ厨二病を患っているので。

そうだなぁって思うのです。

幸福で居続けるという歪さの境地は彼岸にしかないのだと述べる京極堂の言葉は真理を突いているのだけども、きっと演じているケンチさんには理解しがたい病んだ思想なんだろうなぁとも思えて、人である事の幸福を応援してくれるファンにもたらす為に邁進しているケンチさんの口から出た、その台詞の捩じれ具合に何だか不思議な感慨を抱いてしまったのです。

 

京極堂が看破した魍魎の正体は境界。

 

健全な肉体に健全な魂を宿しているケンチさんが、退廃の極みに在る舞台に立ち、彼岸に対して諦念を含んだ見解を述べる境界の混然となった有様は、まさに魍魎と呼ぶに相応しくて、これ程までに多種多様の出自な役者の中で一際異色なEXILEという看板を背負って真ん中に立っていたケンチさんは、此岸から揺るがない存在でありながらも、境界=魍魎そのものでもあったのだろうと取り憑つかれてしまった美馬坂教授と同じような心地になっているのです。

 

さて、後は駆け足にキャストの感想をさくっといきたいのですが、私、久保竣公を演じていらっしゃる吉川純広さんにやられっちまいまして、お前、何処に隠れていた?!と肩を掴んで揺さぶりたい程に、あの人の演技が好きです宣言だけしておきます。

何しろ、声が大変に宜しい!

私役者の良し悪しを声で判断する人間なのですが吉川さんにおかれましては、第一声で「ひえっ!」ってなったし、今思い出しても「ひぇ!」となる鼓膜を引っ掻くような金属質なザラつきのあるお声で、彼岸に渡りたくても渡れない狂気を緩急含めて演じ切って下さったことに感謝しております。

何しろ久保俊公というキャラクターが私は好きで、まぁ、好きとか言うに憚られる程に壊れた人間性だし、連続殺人犯だし、偏執的及び猟奇的嗜好の持ち主だし、陽子と双璧を為す魍魎の匣の根幹である人物だと思うのですが、その相当な難役を余裕綽々でこなしているかのようなお芝居に大変唸ると共に、慟哭も恍惚も憧憬も発狂も一気呵成に見せねばならない役であるが故に吉川さんが限られた時間内でトップスピードで見せてくれる瞬発力にも痺れました。

巧い人だなぁと思うし、プロの仕事だなぁとも感嘆。

全くこれまでの経歴を存じ上げないものですから、こういう病んだお役が十八番だったりするのかしら? 病んだお役が十八番ですね!とか、これ褒め言葉にしていいのかしら?という位には、芝居がこなれていて、神経質な佇まいとか端正なお顔立ちとかが「これぞ、久保俊公でござい」というような有様で本当にうっとりとさせて頂きました。

久保役は、役者からするととても面白くて演じ甲斐のある役ではなかろうか?と素人ながらに勝手に想像しているのですが、そのやり甲斐のある役を、きっちりと観客が望んでいる以上の境地まで持って行って、この男ならば少女を殺して匣に詰め込むなんて所業に没頭しかねないという危うい確信を抱かせるに至った迫真の芝居に今も絶賛の気持ちが止まないのです。

 

絶賛と言えば、関口君の高橋さんも素晴らしかったなぁ!

御本人様は、大層イケてる御面相なのですが、舞台の上で関口君でいる間は「水木しげるの漫画に出てくるサラリーマンかな?」というような風貌にしか見えず、卑小で気弱で境界線の上をウロウロしている常識的であろうとしてるけど、相当に危うい人物に成り遂せており、「関口君だー!」と嬉しくなってしまったり。

ケンチ堂に良いように使われたり、榎木津に振り回されたり、それでいて幕引きのタイミングを己の宣言によって定めたりと、傲慢なんだか小心者なんだか分からん原作の関口君らしい関口君が、舞台の上で観られる事が出来たのは、望外の喜びで(私は、実写化において関口君の事を一番絶望視していたので)何しろ、この関口君であるならば他のシリーズも観てみたいと願う程に、素晴らしい関口君だったのでした。

 

あとさぁ、知ってた。

観る前から知ってたし、観た後も知ってた、知ってたと頷くながらも内田朝陽さんの巧さには「知ってたけどさぁ!!!」ってなってしまうのよな~!

どっちかってぇと、芝居がごっつう巧いハンサム枠に放り込んでいた役者さんなのですが、ガタイはいいは、無精ひげ生やして、声をガラつかせて、押し出しの強い木場修の人物造形に寄せた瞬間から、もう木場修でしたもの。

Yシャツは汗臭いんだろうし、アパートの一室は男臭く散らかってるんだろうし、木場修という男がいると、その背景まで浮かび上がって見えるような存在感に脱帽。

大雑把で無愛想で彼岸と此岸で惑うような人間の事をまとめて「生きてるんだったら、あっちもこっちもねぇだろう? 訳が分からん」って頑丈な視線で見遣るような、安心感と頼り甲斐の塊の木場修が舞台に居て、「内田さんが木場修?! 榎木津じゃなくて?!」となってた私は「ははぁ! 木場修だな、こりゃ!」と納得したし、実際木場修以外の何ものでもない木場修がいました。

あとは、もう顔が下駄のように四角くない点と、足の長さが尋常じゃない事がネックと言えばネックなのですが、スタイル妖怪たちが集合している舞台だったので、木場修らしからぬスーパーモデルな体型もさして浮いては見えず、よい木場修だったなぁとニコニコするしかないのです。

技量がある人っていうのは、どんな役にも成り遂せるとは分かっていたのですが、何というか『絶品』としか言いようの木場修具合だったなぁって思い返しているのです。

 

榎木津も、浮世離れした感じが良かったよー!!!

2.5次元の役者さんって、本当に造形が漫画のように現実味がない人が多いのだけども、その現実味のない感じが榎木津にはぴったりと合っているように見えました。

体型も、みのこなしの軽さも、声の軽妙さも、こうきたかー!な榎木津っぷり。

原作では、最早人間ではないでしょう?というような、言動も何もかも素っ頓狂な造形となっている榎木津なので、もしシリーズが続いてくれるのならば、ご苦労も多かろうというような掴みどころのないキャラなのですが、是非ともこのまま榎木津を極めて頂いて、「愚か者めが!」とか「ワハハハハー!!」とか、難易度の高い榎木津台詞を聞かせて欲しいなと思っています。

 

陽子の紫吹さんも、よくぞこのキャスティング!ってなったなぁ。

元・宝塚男役トップスターっていうのがね、境界そのものの、初めから境界にいた魍魎としてとても相応しかったように思います。

女でありながら男を演じ続けてきた役者の堂々たる境界っぷりは、確かに吸い寄せられずにはいられない圧倒感があって、同じく圧倒的な芝居をする西岡さんとの哀しくもおぞましい親子関係に説得力を付与してくれました。

こんな女性に誘われたなら、禁忌を犯してしまっても仕方がないと思わせるだけの魅力。

華やかで、鮮やかな、何処に居ても目を惹く存在感は流石の一言で、最後の茫洋と微笑みながら佇む姿を含め、生まれた時からこの世にいない人だったんだなぁと思わせてくれました。

 

西岡さんは、最後の圧巻の長台詞とそこからの京極堂との丁々発止の対決が凄すぎて、長年芝居で喰って来続けた役者の底力を目の当たりにさせられました。

一言一言が重い!!!

そんで、そこに真正面から対峙し続けるケンチさんが凄い!!

二人の言葉の応酬は京極夏彦原作の舞台だからこそ得られる、カタルシスすら感じさせる大見せ場で、薮原検校の長口上のシーンをも思わせる言葉の物量に呑み込まれてしまいました。

二人とも長い台詞覚えてえらいなぁ!

千秋楽は、大いに台詞が飛んで私、令和一ハラハラさせられたけども無理もない!

だって、地獄! 台詞量が地獄なのだもの!

美馬坂教授って人は、一言で言えばマッドサイエンストなんですよね。

彼の思想は誰の幸福にも繋がっていない。

彼の科学は、人類に幸福をもたらさない。

脳みそだけで生るだなんて至福の千年王国と誰も思えやしないでしょう。

自身の命を完全に他者のメンテナンスに委ねなければならなくなるわけですし、京極堂が滔々と語った言葉が、この思想を否定する全てであって良いと思います。

 

なのに、西岡さんと言う人が語るとまるで、それが鉄壁の正論のように思えて来るから怖い。

 

不死の身体が如何に素晴らしいか、肉体が脳にとって如何に狭い容れ物なのか、語る内に自分自身を信じ込ませているのだと分かるような、重たい熱を孕んだ狂気に対峙するケンチさんの京極堂は語るだけでなく、あの肉体の強さでもって受け止めているようにも見えて、成程これは、彼らが演じるべき、そして舞台で見るに相応しい魍魎の匣に成り遂せていると、美馬阪VS京極堂の場面でもって、大いに確信したのでした。

 

加菜子と頼子も良かったなぁ!

可哀想な二人の少女達。

二人の世界にいる時の穢れのない美しさとか、頼子が途中で蛹から蝶に脱皮するように、妖しい存在になった瞬間も良かった。

 

あと敦っちゃんも理想の可愛くて元気いっぱいな敦っちゃんで、ケンチ堂と兄妹とか美男美少女過ぎる…と震えたし、鳥口君の「うへぇ!」も「生うへぇ!だ!」と嬉しくなる位に鳥口君の「うへぇ!」でした。

 

最後に、寺田役の花王おさむさんが、今回思ってもいない場所を殴られた感じがして。

おどろおどろしく非人道的で、非人間的な犯罪が横行する世界観の中で彼だけが息子への罪悪感と愛情に翻弄され、悪事に加担しながらも堕落しきれなかった人間の強さと弱さを同時に体現していて、本当に私の知らない凄い役者さんが沢山この世にはいらっしゃるんだなと改めて目を開かされた心地です。

としあき」と呼びながらよろよろと舞台を立ち去る、その背中の寂しい事!

悪趣味な世界を面白がりながら興奮して眺めていた私に冷や水を掛けるような、そのお芝居に胸を打たれた事も書き残しておきたいと思います。

 

 

魍魎の匣において…というよりは、京極堂シリーズにおいて何より重要なのは、戦後間もない時代が舞台であるという事だと私は思うのです。

あの時代ならではの猥雑な空気感。

カストリ雑誌に、猟奇事件、デカダンな世界観を構成するあの時代ならではの活気と闇の濃さが、猟奇事件が起こる為の土台として盤石でないと、京極夏彦シリーズの世界観を体現する事は出来ないって思ってるんです。

だから、私はシンプルで人間以外は箱のみが闊歩する無機質な舞台セットでありながら、あの時代の名状しがたい混沌が伝わってくる演出に感動しました。

京極堂シリーズの事を、私は推理小説だとは思っていなくって。

特に、この魍魎の匣はSFだと思っているのです。

そもそも、超能力者である榎木津の力なしには事件の解決はあり得ないし、脳だけで生きるという発想はSF物においては結構ポピュラーだったりするよね。

どう考えても、どれだけ医学が発達しても、脳味噌だけを残して後は箱にして、持ち運びも出来る状態で人間を生き永らえさせるなんて事は不可能で、だから、やっぱり魍魎の匣SF小説なんだと思うのです。

ただ、SF小説は「未来」を描く小説であるのに反し、今よりも過去を舞台にしながらSFな出来事が起こっているからこそ、魍魎の匣は稀有であり、とてつもなく面白い訳で、その猥雑な面白さを大好きな舞台では存分に味わう事が出来て、私は幸せでした。

 

特にラスト。

舞台の奥行が広がり、歯車が壁一面を埋め尽くした瞬間

「あ、閉じ込められた」って思ったんです。

 

普通舞台上演中に、奥行きを広げる場合「開放感」を観客にもたらす演出意図が含まれている場合が多いんですよね。

当然です。

舞台の視覚的面積が広がるのですから「新しい世界が開いた」り、「閉塞感からの解放」を観客に感じさせるために、奥行きを広げるのです。

でも、魍魎の匣は反対だった。

 

広がった事で狭まった。

これまで無機質なセット故に、場面転換を箱型の枠を使用する事で暗転を多用せずに行い、舞台上の広さを限りのないものとせしめていた舞台が、奥行きの向こう側にある歯車の壁の出現によって広大無辺な場所から境界を作られてしまったのです。

 

その閉塞感たるや! まさに、満席の劇場はみっしりと人が詰め込まれた匣の中になり、私は久保の体内の中に在る内臓器官の一部になったような心地を覚えたのでした。

こんなおぞましいやり口で、これ程の圧迫感を喰らわされるだなんて、想像していなくって。

ちょっと口が笑いの形に歪んでいたように思います。

こんな匣の中では、久保はきっと満足しまいと納得できてしまったのです。

 

匣の中へと詰め込まれたい久保の気持ちは分からねど、匣の中で美馬坂を怨みに思う久保の気持ちは理解させられてしまったのです。

 

舞台表現において、ここまで凄惨を見せつけられた事は私は終ぞありません。

もっと直接的な表現ならば経験はあるのですが、暗喩と言葉と、役者が見せる狂気と。

血糊一滴使わずに、よくぞここまで観客の脳を刺激して、恐ろしい舞台に仕立て上げたものだと感嘆が止まないのです。

 

 

雨宮が、客席の境界を越えて一歩踏み出してきた瞬間、確かに私は「ほぅ」と溜息を吐き出しました。

彼を閉じ込めるものは、もうどこにもないのだ。

自分だけの幸福を匣の中に詰め込んで抱えたまま何処までも行けるのだ。

そして、幸福だけがひたひたと彼を満たし続けるのだ。

荒野を行く彼に果てはなくって。

久保の体内に確かに閉じ込められた私からすれば、その野放図なまでの自由がどうにも、ねぇ。

 

彼が酷く羨ましくなってしまったのです。

 

とても、おぞましくて、美しくて、よい舞台でした。

京極堂シリーズの舞台として、これ以上望むべくもないものを見せて貰ったと思っています。

ここまで読んで下さって、ありがとうございました。