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interview 各役者感想

interviewの全体に対する感想はこちらです。

momizi-part2.hatenablog.com

 

 

さて、それではinterview各役者の感想を書き連ねたいです。
まずは、キム・ユジン先生から。

赤のマツさん。
LDH事務所内において、芝居方面の先駆者的な位置づけにある印象があったので兎に角一度観てみたいと切望していた方でもありました。
優れた作品に出てる際に拝見すべきだと思っていたので、interviewで観られてよかったって心から思います。
ツイッターでも呟いたのですが、歌う事を生業にして来なかったLDHの役者がミュージカルに初挑戦した際に、どう在るべきなのかという一つの解をマツさんのお芝居で得たような気がしています。
まぁ、ただ「LDHの役者」と限定したし、もっというと『パフォーマー出身のLDHタレントが勇退後に役者の道に進んだ際、ミュージカルに出演したらこうなった』みたいな、転生主人公物かな?と首を傾げてしまう程に長い前提付きなんですけど、interviewをこれからLDH主催で再演を重ねていくとして(出演者の言動を見るに、相当可能性は高いと思います)マツさんの演じ方にその解を見たなという気がしたのです。
というのも、マツさんはさぁ、ほんとにダンスが巧いんですよねぇ(EXILE初期メンに何て、言い草だ!とは分かってますが、私はプロの漫画家さんに『絵、めっちゃ巧いですね』と心から言って相手に『もう、絵については褒められなくなってしまったので嬉しいです』と言わしめた女なので当たり前体操な事を言うのに躊躇がないのです)
音に合わせての身体のしなりや、全身にぐっと力を込めて身を縮めてから解放するみたいに腕を伸ばす動き、その際に浮かべる苦し気な表情全部「これが! ドームをダンスで沸かせ続けた男!」という圧倒的な表現力があり、私はぐんぐんマツさんに視線が引き寄せられて「これ、クラブeXで観ていいやつ?」とかお得感すら覚えておりました。

だって、あの距離で観るには、表現力の圧が強すぎませんでした?
私、格闘マンガの登場人物みたいに腕を顔の前でクロスしながら後ろに吹っ飛びそうだったんだけど?
感情を表現する術を歌以外に分散したというか、歌は「歌う事」に集中する分、歌ってない瞬間の表現を全て振り絞る様にして表出してる様がとても美しくって、私は何度も息を呑んだものでした。
あとね、声量が素晴らしかった。
クラブeX、音響良くないじゃないですか?(突然の劇場dis)

返ってくる音はないし、プツンって音が殺されるから役者が出した声をそのままダイレクトに聞くしかない感じがするんですけど、マツさんはお腹から引きずり上げて喉一杯に声を使ってらして、つまり激情に任せた声を野放図に振るって下さって、一切の物足りなさを覚えなかった事がとても嬉しかった。
いや、もう、ミュージカル素人なもんで(デヘヘと頭を掻きつつ)
コントロール完璧な歌声の素晴らしさも分かるんですが、魂を絞ってるかのような後先考えてない歌声に無条件に感動してしまう性質持ちなのですよ。
巧い歌は大好きさ! でも、懸命な歌も大好きだ!
だから、お町田さんだって歌えばいいじゃない! 懸命ならいいじゃない! interviewでマットを演じてみたっていいじゃない! いや、お町田さんのユジン先生役だって観たくない訳じゃないぜ?(このタイミングで自分の欲望を連続で吐露する私の蛮勇を褒めて欲しい)
加えてマツさんってばあの声を、ずっと稽古期間から公演期間中出し続けてて一切喉が萎れてなかったとするなら、喉強すぎない?と驚嘆。
マット達を威圧するかのように大声を出すという一点においても、今回の役者にない特色となっていて、それがとても良かったなって思いました。
他の役者にないという意味においてはマツさんのダンディな佇まいも素敵で、異国感を醸し出すのに一役買っていたし、赤Verはお蔭で舞台が雨のロンドンにあるという設定の説得力半端なかったもんな。
台詞回しも相当洋画っぽさがあって、赤と青はそもそも国が違う!と感じさせられたものでした。
加えて、マツさんのユジン先生からはインテリっぽさよりも、素朴かつ粗野な印象を受けたんですよね。
朴訥として、素直で、真っ直ぐで、熱くて、自身の信じる正義の為にマット達の前に立っている感じがしたし、だからこそあの変幻自在で、手を伸ばした指先で尻尾だけ掠めさせて、どんどん別の人格に逃げ回ってくようなマット達を真っ直ぐ貫いて、最後に捕まえる事が出来たような気がした。
ユジン先生のマットに対するアプローチが赤と青では全く違うように見えたのです。
私は赤が極めて寓話的に感じたのは、三人各々の役割がシンプルに分かり易く対立するものとして観られた事も大きいかもしれないなと考えています。
マツさんのユジン先生は明らかに、マット以外の人格に敵対し、排除しようとしていました。
その激しい口調、振る舞いが後半、真実が明らかになるにつれ自分が守ろうとしていたマットこそが「怪物」だったと知った時の絶望感を、観客の感情もろとも同じ景色を見せるまで手繰り寄せ、同じ悲しみを味合わせるところまでに到達させてくれた。
ユジン先生が私の気持に寄り添ってくれた事によって、物語の構造をシンプルに、分かり易く伝えてくれたように感じているのです。
あとね、観る前からマットとユジン先生の「年齢差」が、どう効いてくるのか?という事に興味を抱いていたのですが、マツさんと糸川さんの年齢差が未成熟な若者とベテランで人情派な精神科医という関係性を視覚的にも浮かび上がらせて、マツさんの太くて力強い声が『正しくあろうとする人』としての説得力にもなっていて、マツさんの持ち味こそが赤.verの印象を大きく左右したなと確信しています。
特に年齢差が功を奏したという意味においても、マツさんのユジン先生で白眉だったのはウッディとの遣り取りだと思うのですよ。
まるでマツさんという人の人柄が滲んで見えたような、暖かで、優しい、親切な声と表情。
「字が読めないんだ」と幼い声で語るウッディにマツさんの身に纏う空気が一変して、怖がらせないように、傷付けないように振舞おうとする仕草が窺えました。
多重人格である相手に相対するユジン先生は、自分が相手をする人格に合わせて態度を変えていかねばならない訳なのですが、マツさんのユジン先生は『子供』のように元来保護されるべき存在、大人が守るべき存在への態度が本当に素晴らしくて、あのユジン先生を見た瞬間いっぺんで赤のユジン先生の事を好きになっちゃった人は多いのでは?と勝手に推測。
先程までジミーに相対していた時とは全く違う、ウッディの心に暖かな手を伸ばす態度は赤のユジン先生がどういう人間かを知らしめる事にも一役買っていたように思うのです。

まぁね! 言うても、やっぱり歌声にはドキドキしたし(でも、嫌なドキドキではなかったです)その前提があるせいか(つまり、歌に気持ちを持ってかれすぎていないか? 加えて段取りの多さに、ミスりやしないか?って、心配はしていました)(その後、共演者のミスのフォローを咄嗟に行い、その行動に一切違和感を抱かせないという『惚れてまうやろ!』な技を見せてくれた時に、物凄い失礼をぶっかましていた事を反省もしております)青よりもたっぷりと間を取るお芝居だったお蔭で、相当途中「台詞すっ飛ばした?!」とハラハラした事もお伝えしつつ、マツさんのお芝居他のも観てみたいな~!と心から思えている事を嬉しく感じております。


お次は、青のユジン先生を演じられた丘山さんなのですが、観劇前にツイートとか見るだに「人格どうなってんの?!」とか慄く程のハッピーオーラに当てられておりまして、マツさんとの佇まいの差もあり、同じ役やる人とは思えん…と震え上がったりもしたものでした。
丘山さんも2.5次元で鳴らしてる役者さんという事で、今回interviewというお芝居で出会えて良かったなって凄く思います。
何しろ、公演前から公演後に至るまで一切ネガティブな言葉を吐いてないんですよね。
かっこいい~!みたいな。
あの、意味を判じる前に「スペシャルハッピーでーす!」みたいな文字と絵文字の羅列に圧倒されて、「お、おう…」みたいな反応しか出来てなかったんですけど、お蔭で私何を見せられるのか一切想像できないまま劇場入りできましたし、あのユジン先生の中の人が、このテンション?!とか思うと味わい深くって。
どうしても私の嗜好として、小劇場系演劇を好んできてるものですからこういう機会でもなければ絶対に知る事のなかっただろう、2.5次元俳優さんの実力と言うものを思い知る事が出来ました。
私、何度も心を打たれるって事は何度も忘れてしまいそうになるおバカさんって事なので、本当に逐一自分に言い聞かせていきたいのだけど、自分の知らないジャンルでご活躍されてる人を、イメージだけで固定概念を抱くような事は絶対にならんのよね、絶対に。
丘山さんのユジン先生には、スマートでハンサムでクールで知的でそして、全体感想で述べた通り境界上に立つ危うさを私は感じました。
歌声は澄んで、高く、そして感情の高ぶりをビブラードに乗せて空間を震わせる。
最初のうちは冷徹な程に距離感を保ち、マットから人格を引き摺り出すべく手ぐすねを引いて用意周到に次々と現れる人格達に対峙しているように見えるのに、新たな人格達が少しずつ明らかにしていく真実にズルズルと引きずり込まれてくように見えて仕方がなかった。
赤のユジン先生がマットに対して抱く「救いたい」という気持ちと、青のユジン先生がマットに対して抱く「救いたい」という気持ちって、性質が違うように見えるんです。
赤が父性的な「救いたい」だとするのなら、青は母性的な「救いたい」に見えた。
力強くマットの腕を引き、正気の世界に留めようとしてる赤に比べて、青のユジン先生は「一緒に狂ってあげる」ように見えた。
一緒に狂って、傍にいてあげるユジン先生に見えた。
だから、赤のユジン先生はマット以外の患者も抱えて精神科医としてこれから沢山の人を救っていけるような、そんな先生に見えたのに青のユジン先生は、もうあすこで終わってしまうみたいな。
先生としては終わってしまうみたいな。
あとはマットに寄り添って、彼の治療にその生涯を捧げてしまいそうな、そんな人に見えた。
私、だから沢山泣いてしまって。
ユジン先生のラストの優しいお歌に泣いてしまって。
彼岸に渡る人の鎮魂歌に聞こえてならなくて。
私は見送る気持ちになってしまって。
ああ、終わってしまうんだ。
この人の全ても終わってしまうんだって感じたんです。
マット・シニアは五人の女を殺し、姉を殺し、そしてユジン・キムの先生としての人生を殺した。
私は、そういう罪深い男の物語なのだって青に対して結論を出したのです。

私、共依存が大好きで。
あ、性癖の話です。
突然性癖の話されるの戸惑うと思うんですけど、構わず続けますね?(強引)
私、「創作の世界における」と前提は付けときますけど、共依存が大好きで、こういう言い出すって事はお前ロクでもねぇ事書くつもりだろってお分かりいただけた通り、青のinterviewをユジン・キム先生とマット・シニアが依存しあう間柄となる物語だと解釈した訳なのですね。
ジョアンを失ったマットが、今度はユジン先生と二人ぼっちになる話だったんだって思ったから私は青verのinterviewに対して魂が溶けてしまいそうな程に泣いてしまったんですよ。

そうさ! 私は、そういう病気なのさ!!!(自分で認めておく話の早さを褒めて欲しい)

だから残酷なのかも知れないけどマットよかったねって思っちゃったんですよね。
この先最後まで、うん、きっと最後の場所でマットを待ち受けているものは幸福ではないのだろうけど。
でも、最後まで一緒にいてくれる人が見つかって。
いや、あなたを見つけてくれて良かったねって。
もう、寂しくないねって私は泣いたのです。
赤にはハッピーエンドの兆しがあった。
赤のユジン先生は汚泥の中を掻き分け、その泥の重さに何度膝をついたってきっと、マット・シニアの腕を掴み泥の外へと引っ張り出す事を諦めない人だって思えた。
青のユジン先生は、一緒に汚泥に沈んでしまう人に見えたのだ。
そして、マットの耳に「御覧。 僕たちが沈んでいるのは綺麗なお水だよ」って偽りを吹き込んであげる人に見えたのだ。
いずれにせよ、入水心中。
二人して満足に呼吸は出来まいと思った瞬間に、私は息苦しさを覚えて、大きく咳き込みました。
マスク越しに口を両手で押さえて、肩を大きく震わせて。
これは本当の話です。
青の前楽で、身体を揺らして必死に堪えながら私は喉を震わせて小さな咳を繰り返しました。
私は、劇場で溺れそうになったのです。

私には、丘山さんがどういう風にユジン先生の役を解釈し、どういう感情でマットと接していたのか知る由もありません。
私の病んだ感じ方が正しいかどうかなんて、別に教えて欲しくもない。
丘山さんの繊細で細やかな表現が、序盤の静けさから徐々に情緒を引き摺り出され、目の前の青年に心を奪われ、憐れみ、何をおいても救いたいと願うまでの過程を眺めながら得た私の感想が「そう」であったというだけの事なのです。

マット・シニアという怪物に魅入られた犠牲者。
青のユジン先生に感じている私の印象を一言で言い表すのなら、私はそうとしか言いようがないのです。

さて、文字数が既にヤバヤバなのでサクサクとジョアン・シニアの感想を書かせて下さい。
赤のジョアンの伊波さんはねぇ、圧巻でしたよね!
歌が! うめぇ!!!(天を仰ぎながら)
歌が巧いってさ、歌が巧いんだなぁ…(呆けた顔で)
もう、駒鳥の歌とか「永遠に聴いていたい」ってなる位だったもの。
伊波さんの駒鳥の歌を絶賛した直後に「そういや、あの歌から舞台は始まるけど、みんなすぐに歌がマザーグースに直結した? 私は一回『あ、これクックロビン音頭だ! つまり、マザーグースって事か!』って理解の前にクックロビン音頭を挟んだんだけど、そういう人絶対他にもいるよね? ね?」という世界で一番どうでもいい、私の脳味噌がウレタン製である情報を差し挟みたい位に素晴らしかったもの!(こんなに真実、世界で一番どうでもいい情報も他になかろうよ)
揺ぎ無く歌がうまくて、心を強く掴まれて、歌い出しを聞いた瞬間にその豊かな歌声に「ふあああ(感嘆)」ってなりました。
尽きぬ事のない、際限のない泉のようなたっぷりとした美しい歌声は「私は本日、ミュージカルを聞きに来ました!」っていう実感も与えてくれて、聞き惚れずにはいられなかった。
彼女が自由自在に操る歌声で今がどういう時かが分かるみたいな、状況把握すらさせてくれた。
ミュージカルで歌がうまいという事はこういう事か…って、その意味を知るというか、普段聞いてる曲との違い自体にちゃんと思いを馳せられた気がします。
その位に赤・ジョアンは、本当に歌がうまい!(何度も言う)
で、この巧い歌をベースにして、その上に乗せてくる芝居がまたうめぇのよ(唸る)
ユジン先生とマットの芝居を受けて、舞台をコントロールしていて、手練れだなあと単純にその技術の高さにも感じ入ったのでした。
バランサーとして完璧に機能していて、彼女は出ずっぱりではなくて、要所要所で姿を現す存在だったのだけど、その存在感故に彼女の登場が私にとっては「物語が動く合図」のように感じられてならなかった。
歌も、華やかな外見も、兎に角生命力に満ちてるんですよね、赤・ジョアンって。
故に舞台上に立つ彼女は「生きていた人間」としての印象が強く、青・ジョアンに感じた儚さとか、存在の取り留めのなさのようなものは、赤・ジョアンにはさほど感じませんでした。
ジョアンの挙動・言動って、あくまでマット達のフィルターを通して我々の目に映るものなので虚実入り混じったものである可能性もあるのですが、あまりにも生き生きと、実存性のある芝居と歌声を魅せてくれるので「ああ、確かにジョアンは居たのだ。 マット・シニアにとって眩しく、愛しく、何度手を伸ばしてもすり抜けていく輝き、守るべき存在としてこの世にいたのだ」と実感する事が出来たのです。
聖母のようだったし、狡い姉にも見えたし、弱い女だと感じた。
マットと彼女の関わり方は姉弟と男女との境目が曖昧で滲んで見えて、マットは勘違いするだろうなって凄く実感できた。
マットは「自分たち愛し合えてるんじゃないか。 アナベルリーみたいに姉は自分を愛してくれてるんじゃないか」って勘違いするだろうなって思って、マットの事を益々可哀想に思ってしまって。
マットが勘違いした瞬間が肉体的交わりを持った時かどうかは知らないけれど。
ジョアンがマットを勘違いさせてしまったのは故意かどうかも分からないのだけど。
こんなジョアン相手だからマットが自分達はこの世にはお互いしかいないと思った時間を過ごせたんじゃないだろうか? ジョアンに愛されてるって勘違いしてる間、マットはもしかしたら少しばかりの幸福を得てしまっていたのではないだろうか?って思う程に赤のジョアンは女性として魅力的でこのジョアンは家の外においても、随分と異性の心を奪っていたんだろうなぁって私は思うんです。
端的にいえばモテるだろうな、このジョアンはって思ってて、その女性としての可憐さも、なんだかあの家で生き抜くために身に付けた術ではないだろうか?と考えると、切なくて、怖くて、おぞましくて、辛くなってしまうのでした。
ジョアンがそうやって自身の持ってるもの全てを利用して、手段を講じて自身を守り抜いたんじゃないか?っていう風に見えたのは余りにも赤・ジョアンが人間だったからだと思う。
人間のままに、あの家の中で生きていく事はそれは辛いだろうて。
適応を一切出来てない彼女が、弟を見捨てて、男に縋って家を出ていく切符を手に入れる事を誰が責められるんだろう?って私は考えちゃって。
赤verはね、ずっと「私達が目にしているこの事態はどういう悲劇か」っていうのを、理解させ続けてくるんですよね。
情緒で誤魔化さないんです。
伊波さんの芝居の具象的な巧さも、その理解をずっと促し続けてくれた。
彼女が母親になって登場する時とか、私は彼女が登場する通路脇の席に居たのですが、脚を引きずって、身体を傾がせて現れるんですよ。
その姿を背中で聞いた音だけで目に浮かべる事が出来た。
具体的な芝居を、ずっと心掛けてくれていた。
歌がうまいという事は、声の出し方が巧いという事で、声の出し方が巧いという事は舞台においては殆どイコールで芝居が巧いという事なのだと理解出来ました。
伊波さんのジョアンには、問答無用の実力でぶん殴られた。
そんな心地がするのです。

比べて青のジョアンの、ののりきちゃんはちょっと思い出すだけで頭がおかしくなりそうな位に「居る」のに「居ない」人でした。
居た? 青のジョアンって居たよね? 透けて向こう側が見えてたような気がするんだけど、居た筈なのよ。
だって、ののりきちゃんおのちゃとコラボキャスとかやってたし(最早、コラボキャスで存在を確認しようとしている)コメント欄にもいたもんね?
コメント欄のコメントすら超きゃわわで、私は完全に「君を推す!!!」と強い意志を抱いてしまっているもんね?
そんなののりきちゃんが演じているのに、「ああ、幻なんだな」って舞台上を歩いてる時もすぐにそう感じてしまったくらいに、存在が疑わしい程に綺麗で、怖くて、悲しくて、透明感があって、目を離した瞬間に消えてしまいそうだった。
私の中でE-girlsって可愛くて強くて元気の象徴なんです。
極めてヘルシーな印象と言うか、「私がモテてどうすんだ」でも、その健康的な可愛さを振りまいていたののりきちゃんが、澄みきった透明度の高い歌声を喉を震わせながら奏でる姿を見た時に亡霊にしか見えなくて息を呑んでしまった。
震えるか細い声。
小鳥のような声が空だけを目指して響いていた。
自由自在に歌う事で生命力を感じさせてくれた赤・ジョアンとは全く違う鎖で繋がれているかのような不自由さ。
この世のものでないようなゆらゆらとした眼差しと、事ある毎に見せつけられる確かな筋力と体幹によって生まれる「どういう仕組みになってるの?」と慄くような人間の生理からかけ離れた、人外の動きで見せる虚脱やしなやかな身のこなしによって、益々「人でなし」な印象は強まり、マットを追い詰め傷つけ痛めつけ支配し玩具にする冷酷さを見るにつけ「この子も怪物だ」と私は思い知らされたのでした。

ジョアン・シニアは誰が殺したのか?
マット? 母親? 義理の父親? 彼女に助けの手を差し伸べなかった社会? その社会の一員である私達?
ジョアンのマットへの仕打ちを責められる人はこの世にいないと思います。
彼女の罪は彼女だけの罪ではない(それはマットにも言える事です)
子供が父を亡くし、母親に育児放棄され、弟の命を一手に任せられて、新しい父親からはおぞましい虐待を受ける。
あの家に適応して生きていく為には「怪物」にならざるを得なかったのだろうと私は青のジョアンを見て強く感じた。(interviewの舞台裏密着において演出の田尾下さんが述べてたように、赤の方が冷静で青の方が直情的という言葉に私は大いに頷いていて、ジョアンこそが赤と青がそれぞれ『そう』非ざる得ない』理由ではないかな?って思ってます)
ジョアン・シニアはあの家にいる間中、ずっと人でなしでいなきゃ生きてけなくて、人でなしのまんま結局家から出られずに息絶えた。
赤のジョアンとマットに感じた男女の関係である事に対するおぞましさは、青のジョアンとマットには感じなくて、それはジョアンを人間の少女だと思えないままでいるからかもしれません。
なんだか、ずっとマットが一人ぼっちに見えた、
ジョアンは、マットと抱き合いながら何にも明け渡さずにいたんだろうなって感じた。
いや、明け渡せなかったのかも知れない。
だって、ジョアンは何にも持っていないから。
青のジョアンの事を考えると、いつでも胸が張り裂けそうになる。
いつからジョアンは怪物になってしまったのだろう?
何にも持たずに、家に繋がれ、歪んで、壊れて、エドガー・アラン・ポーの詩集を胸に抱き、空に向かってか細く歌うばかりのジョアン。
赤のマットと、青のマットを比べた時に青のマットの方が少しだけ寂しいのは、彼が全てを懸けて愛したジョアンがずっと空っぽだったからだと思う。
最期、マットに手折られて、魂が抜けた人形みたいに崩れ落ちてマットの腕の中からもすり抜けて、その余りにも虚ろな、なすがままに命を奪われるジョアンの姿は、ずっと昔に真っ白に枯れていた木が漸く倒れる瞬間にも見えて。
あの素晴らしい、ののりきちゃんの身体能力があったからこその美しい…うん、『美しい』という表現を使う事を私は躊躇ったのだけど、それでも息を呑む程に儚く美しい死を得たジョアンの背中を正面から眺める席を得ていたので、私は漸く空へと羽ばたこうとする羽を確かに見た気がしています。
怪物として生きたジョアンは死によってやっと、あの家から、自分を虐げ束縛する家族から、自分を助けてくれなかった社会から、怪物である自分から自由になったのだと感じて、辛くて辛くて堪らなかった。
ユジン先生に抱き抱えられて美しいシルエットを壁に残して消えたジョアン。
赤のジョアンは、もしマットに殺されずに家から逃げ出せていたら私、幸せになったんじゃないだろうか?って思うんです。
残してきた弟への罪悪感を抱えたまま、それでも彼女は日常を手に入れ、人生を謳歌した気がする。
全体の感想においても書きましたが、青のジョアンは無理でしょうね。
あの子は、美しい湖畔の片隅にある小さな家の中でしか生きられないように設えられて見えた。
とても、他の場所では生きられないようにしか見えなかった。
マットに首を締め上げられて、浮き上がるみたいに身体が釣り上げられて、私はその姿に恐ろしいことにカタルシスを覚えてしまったので。
彼女の物語の正しい終わりをマットがもたらしてる光景にカタルシスを覚えてしまったので、私にとって青のジョアンとは息絶える事でしか悲劇から逃れられない存在なのだと思うと、本当に辛くて仕方がないのです。
赤のジョアンに感じた自由を手に入れる直前で事切れた彼女の死を痛ましく思う気持ちと、青のジョアンに感じた死ぬ事でしか得られない自由を目の当たりにした辛い気持ち。
同じ演目でありながら演者が違うが故の私が覚えた悲しみの性質の差に、今も慄いているのです。

目標は二万字以内に収める事なので、もうね! すぐに次の方の感想を書き出しますよって事で、マット・シニア達を演じた糸川さん。
2.5次元系の俳優さんである事も後から知った位の知識のなさなのですが、素晴らしいミュージカルアクターだ!って拍手喝采がやまない位に軽やかに、明確に演じて下さった。
役柄自体はとてもしんどいんです。
それは、もう舞台を観た人は全員御存じの通り、マット達は全員しんどい。
そんなしんどくって出ずっぱりのお芝居を、どうしてあんな風に最初から最後まで一切の息切れなく、演じ切って仕舞えるんだろう?
軽妙で、愛嬌があると思うと、幼くなって、可哀想で、悲惨で、必死で、どんどんくるくる変わって、歌声が軽やかで。
とにかく「わ! 軽い!」って凄く思ったのでした。
私の乏しいミュージカル観劇経験において、「巧い」と称されているアクターの歌声の印象は共通して「軽やか」である事が必須なんだなって思ってて(全然違ったらごめんなさい。 軽やかっていうのは歌声の重量がただ「軽い」という意味ではなく、声域の広さ故に歌声に際限が見えず何処までも高みに登って行けそうに聞こえるという身の軽さを指しています)「この人ミュージカルの人だ!」みたいな、いや、それは伊波さんにも感じたのですが「ミュージカルの人だー!」っていう、そういう単純な感動も覚えました。
凄い難役の筈なのに、難役と感じさせない程に身のこなしも口舌も滑らかで、段取りも自然にこなしていって、本当に観客としても気負いなく観られるというか、徐々に明らかになっていく凄惨な秘密を、マットの情緒の変化と共にこちらの理解を促されてくような丁寧で、正しく伝えるという事に誠実な芝居をしていらっしゃるようにも見えたのです。
だから、やっぱ余裕なんですよね。
今回の感想って、つまりミュージカルの場数踏んで来た人のアドバンテージについてもずっと念頭に置いた感想になっちゃってるんですけど、歌う事に余裕があるから観客からどう見えるかという段階にまで気遣いが行き届いた振る舞いが出来ている。
囲み舞台において、四方から飛んでくる眼差しを捌き、受け止め、どう観られるかまで考えられた振る舞いをしているようにも見えて、ああ、綺麗だなって。
この人仕草が全部綺麗だなって感じ入ってもおりました。
とめどなく変遷するキャラクターに合わせた無理のない、自然な振る舞いを常にしていて、なんてこなれた芝居を、こんな難役で見せてくれるんだろう!って私は感嘆が止まないし、伊波さんと糸川さんの支えがあったからこそ、私はマツさんのユジン先生に対し手放しに好感を抱けているのだと思ってます。
赤チームは、マットとジョアンが歌声でユジン先生を支え、ユジン先生はマツさんという表現者にしか出来ないやり方で赤の空気を作り上げていた。
三人が三人共それぞれが為すべき仕事をしていて、私は舞台上における自身の責任を果たし、領分を守る役者の姿を観る事が大好きなので、赤チームのチームワークやお互いに補い合うような舞台作りを素晴らしいなって感じていますし、その中においても糸川さんの変幻自在のマット達には「次の『人間』を、糸川さんはどう演じてくるんだろう?」と期待に前のめりになるような(実際にはしてませんよ?)心地にさせて貰いました。
ジミーの信用ならない詐欺師っぽさに、ウッディのあざといまでのあどけなさ、アンのお姉さんぶった可愛らしさと、ノーネームの虚無感。
マットの中に内在している人格全てが「人間」として並列に存在してるという事に説得力を持たせる、それぞれの人格が拮抗して「全くの別人」として表出している切り替えの早さは見事で、糸川さんのマット達には常に「早い」という事にまつわる巧さが特筆して素晴らしかったような気がしています。
全くの別人みたいに、画が切り替わっていく。
糸川さんという演者の引き出しの多さに舌を巻くと共に、こういう人が立つ2.5次元のお芝居というのは改めて、研鑽を積み、高い技術を持った人でないといけない舞台なんだろうなっていう気持ちを抱いてしまいました。
ジョアンとの関係性とか、本当に絶妙だったもの。
あの二人は、どうあっても悲惨でしかない二人なんだけど、赤の場合はマットに「通じ合ったと勘違いした瞬間があった」からこそ惨たらしく見えたんだろうな。
マットは王子様みたいにジョアンを守ろうとして盾になって、どれだけ彼女を守っても、その両腕からジョアンはすり抜けて、抱きしめる事は一度だってなかった。
赤のマットは青のマットよりもポジティブな人柄に見えて、それはジョアンに上手に心を麻痺させて貰ってるからで、愛するジョアンを守るという使命感が彼を支え続けてたんだろうと思う。
義理の父親に自分を差し出すジョアンの言動を理解しないようにしてるみたいにジョアンの願いを聞いてるマットの姿は、健気で愚かで目をぎゅっと閉じて、見たくないものを見ないようにしてる頑是なさも感じられて。
赤・マットは女神のようにジョアンの事を盲信してただろうなとも思うのでした。
ユジン先生は、こんなマットを救えるんでしょうかね?
これは赤・青共通のマット・シニアに対する私の感情なのですが、私の倫理において「五人の罪なき女性の命を奪った」という罪自体は取り返しのつかないものだと思ってはいるのです。

私が、その殺された女性のうちの一人の家族だったら?
友人だったら?
恋人だったら?

ユジン先生は世論を耐え難いものだと評していましたが「耐え難い世論」に僅かでも心を慰撫される被害者遺族や関係者の感情があるとも思うのです。
私が、被害者関係者であったなら。
私が被害者本人であったなら。
極刑を望むと思います。
救われていい筈なんてない。
罪もない女性たちが、酷いやり方で命を奪われる。
理由は何であれ許される筈がないのですが「自身の罪を忘れない為」だなんて理由は極めて自己中心的で許し難い。
それは、マット・シニアの生い立ちをもってしても贖いようのない罪だと思う。
その罪の責任の全てをマット・シニアに求める事は出来ません。
分かってる。 理屈です。 彼に人間の輪郭を取り戻させ、贖罪の機会を与えるべきというのが、正しい結論なのかもしれない。
この演目で示されていた、帰結すべき正義はそこにしかないのかも知れない。
それでも、私という人間は彼が奪った命の数を思うと不意に口をついて出るのです。

「生まれてこなければ良かったのに」と。

ジョアンが赤子のマットに述べた台詞を私も脳裏に浮かべてしまった。
私は最悪の結論を得てしまった。
マットは悪くないって思いながら、彼を怪物に至らしめたこの世が悪いと分かっていながら、生まれた瞬間から絶望しかなくて、レールの上から逸れる事は許されなくて、連続殺人鬼となる運命から逃れる道筋なんて一つもなかったマットの事を思うと、辛いばかりで。
そういう怪物になるしかなかった生き物であるという前提の上で、私は生まれてこなければ良かったのにと思うのです。
マットはどうなんでしょうね?
生まれてきてよかったって思った事はあるのでしょうか?と考える事自体が醜悪で傲慢なのかもしれない。
ユジン先生はマットに「生まれてきてよかった」って思える瞬間をあげられるのでしょうか?
赤のマットとユジン先生なら、なんとかなるような気もするのです。
「生まれてきてよかった」と実感する事がマットの手によってもう出来なくなってしまった人々の事を思うと、そう実感させる事の「罪」についても考えてしまうんですけどね?
でも、赤のユジン先生なら私のこの最悪の結論すら「そんな事はないんだ。 生まれてこなければ良かった命なんてないんだ」って翻させてくれるかもしれない。
赤には、そういう希望が微かに感じられた。
糸川さんのマットは、「こういう生い立ちでなければ、この聡明な若者は素晴らしい人生を謳歌出来たのであろう」と想像を巡らせてしまう程に、人柄に魅力を感じさせてくれて、だからこそ彼を通して、マットとジョアンが見舞われていたような苦境が今社会において現実に存在してる事を認識し、私自身の出来る範囲ででも、その改善に取り組んでいかねばならないと社会を構成する一員としての自覚を強く促されました。
interviewという舞台の意義を正しく受け止めさせてくれた糸川さんのマットに、私は感謝の念を抱いています。

そして、最後にどうしていいか分からん位に狂わされたおのちゃのマットの感想を書かせて下さい。
既に一万三千字に到達しており全体感想と分けた記事にした意味は?と考えだすと、私、今までもブログ書き上げた後リツイート先とかで「長い。 読めない」とか言われたりしてて「どげんかせんといかん!」と決意して以降、私なりにブログ短文化に励んで来たのですが今回は無理!
もう、頼むよ。 好きなように書かせてくれ。 読める人だけ読んでくれたらいいからさ。
と、前置いておいて、ただひたすらに「凄いものを観たね、私達」と呻き声しか漏れない私の有様をお伝えいたします。
私、多分観劇が趣味ですと胸を張れる程には本数は観てないけど、舞台の事は分かりません!という人よりは観てるという中途半端な舞台観劇歴持ちの人間なので、目安にはならないでしょうが、本当に「この役者、とんでもないぞ」って震え上がったのです。
陳腐な言い方を許して欲しいのですけどおのちゃの「才能」に私は足から膝の辺りまでずっと、痺れるみたいに震えていたのです。

観劇中、終盤に至るにつれて、どうしてこんなにって舞台を観ながら祈ってしまっていて。
祈りながら舞台を観るなんて初めてだったから、自分の感情の正体を掴めないままにいて。
どうして、こんなにってそこまで考えて、観劇中に言葉の続きが見つからなくて、観劇後に相互フォロワーさんと溢れるみたいに感想を交わし合ってる時にふと「おのちゃが綺麗すぎて泣いてしまった」って伝えたのだけど、私は多分ずっと「どうしてこんなに綺麗なんだろう」って祈ってたんだと知ったんです。
恐ろしくて、悲しくて、惨たらしいばかりの役なのに、おのちゃのマットはバチン!って弾けるみたいに、火花をずっと散らしてるみたいに綺麗だった。
どこに隠してたんだ、そんな眩しいものをって私は度肝を抜かれてしまって。
こんなに稲妻みたいにチカチカ凶暴に光る輝きを隠し持っていた役者だったのかって目どころか心まで潰された。
おのちゃについては勇鐘感想ブログやjamの感想ブログでも書いてる通り、純粋に演技力は劇団内でもトップだと私は思ってはいたのです。
それは、そうです。
とにかく天性のものなのか、勘がいいし、技術が高くて、間がの取り方が巧く、度胸がある。
相手に合わせて相手の良い所を引き出す芝居という、やろうと思って出来るもんじゃなかろう芝居をやってのけ、観察力が素晴らしいからこその役の解釈の的確さを私は絶賛して、絶賛して、おのちゃが他者と足並みを揃える余裕なんてなくなるような超絶巧い脚本の超絶難役に挑んだら、私はどんだけ打ちのめして貰えるんだろう?とか想像した先にあったのが、このinterviewですよ。

もうね、おのちゃは雑な作品には出ないでくれ。
あなたの才能を尊重し、あなたを大事に取り扱ってくれる人と一緒に仕事をしてくれ。
そういう類の…おのちゃは皆から大事にされるべき、そういう類の宝物みたいな役者だ。
あと、劇団EXILEの面々はみんなおのちゃを尊重し、一目置き、心から讃えてくれ!とか願ってたら観劇した劇団員は軒並みおのちゃを褒めそやしていたので、私はそこら辺は結構満足しています。
あとは、おの町コンビの屈折具合が大好きなので、おのちゃの芝居をゲルマニウムかな?って位に屈折率の高い褒め方をしたり、この先のお町田さんからおのちゃへの接し方がいよいよおかしな具合を見せては欲しいかな?(私、すぐ欲望を口にする~!)
おのちゃが何気なく手にして、気負いなく見せてくれるユーモアだったり、コミュニケーション能力の高さだったり、他人との距離感の縮め方の巧さとか、歌唱力の高さ、どんな役にも対応出来るからこそおのちゃに舞い込む仕事の多様性や、それこそinterviewの役柄等々を「後輩相手に!」と自身を律しつつも、ちゃんと羨んでるお町田さんの気配が私は欲しいんだろなぁ!
その上で、おのちゃが自分にだけ面倒臭い接し方をしてくるお町田さんにひたすら困り果ててる姿が大好物なので是非くれ!!!(両手を突き出しながら)
秋真さんがおのちゃを例によって手放しで褒め倒し、おのちゃが素直に喜べずにぶすくれてるの図をじとーっと眺めてるお町田さんの姿をくれ!!!!(おのちゃの感想を通り越して、推しへの歪な欲望吐き出す事を止められなくなってる)

その位に凄すぎて、私はinterview以降ずううううっとおのちゃが演じたマット達の事だけを考えて過ごしてしまっているのです。

おのちゃのを生で観劇したのは勇鐘だけで、その際は役柄をきちっと全うする「職人だな」「プロってこういう事だな」「つうか、巧いよなぁ」ってそうやって唸って「高い期待に応える、思った通りのおのちゃだ!」って満足させてくれる、そういう印象だったのに。
言うたら、私の好きな華があるというよりは、地味だけど確かな実力があります!っていうそういう役者だと思ってたのに。
そのおのちゃが、他人のフォローなんて事まで頭が回らないであろう程に全力を注がねばならない役を演じた時にこんなにも、観客の全部を奪う凶暴な役者になるなんて思ってもみなかった。
全方位に向かって敵なしじゃん。
どんな作品にも対応し、どんな役柄でも出来るって事じゃん。
しかも、おのちゃはまだ若くって、これからどんどん経験積めば積む程巧くなっていくわけで。
そんなん、最強の役者じゃん。
最強の役者を擁する劇団EXILEをよろしくお願いしますじゃん(二万字近く感想を書き続けた果てに、いよいよ正気の失い具合が末期に達してきている)

何しろ、おのちゃのマットはずっと痛々しかった。
そして、「同じ痛み」を等分にマットに住み着く他の人間達も負ってるように見えた。
入れ替わっても、ユジン先生の追求から別の人間に逃げても、全員生々しい傷に喘ぎながら、息も絶え絶えに助けを求めていた。
だから、赤は「別の人間達」という印象が強かったのに、青にはあくまで「同じ人間が枝分かれしていってる」という印象を受けました。
それは、おのちゃが「苛立ってる」キャラを演じたら右に出る者はいない芝居をする人だからだろうとも思うのです。
全員が全員苛立っていた。
マットも、ジミーも、ウッディもアンも、ノーネームも。
おのちゃがハリネズミみたいに毛を逆立てて、人を寄せ付けない表情を浮かべるのを映像では何度も見て来た。
得意だからそういう役柄が多いのか、そういう役柄が多いから「苛立ち」の表現が研ぎ澄まされていっているのか?
青・マットは苛立ちを抱え、歯ぎしりをしながら、ユジン先生に相対し、歯を剥き出しにして「僕を助けて」と叫んでいた。
衝動のように何度も「この子を助けたい」って私は思ったし、ユジン先生がマット達に覚えた感情の根幹にもやはり衝動があったような気がします。

なんでだろうな。
でも、青Verは全部手遅れに見えて。
だって、青のジミーが机の上に立って夜景について語る時、天井に輝く星達が全部彼に落ちて来そうに見えた。
そんな事ある筈ないのに。
でも、そういう光景が似合う男だってつくづく思った。
もう、この男の身に起こった事の全ては全部取り返しがつかないんだろうなって、あの時感じた。
だって、星空が落ちて来そうに見えるんですよ? そんな人もう、誰にも救えないって事ですよ。
あと、おのちゃチンピラ役歴もね! 長いから! ジミーが絶妙にガラが悪いんですよね~! 
あの「かったりぃな~!」みたいな知性のない粗暴な仕草とユジン先生への絡み方に「十八番だー! これ、おのちゃの十八番のやつだー!」って嬉しくなったし、ガラの悪いチンピラ感に「よ! 待ってました!」って大向こうをかけたくなる私ってどうなの?とも分かってはいます。

そこからのウッディがもう私、青柳さん御出演のMM観劇後に青柳さん最推し勢に述べた感想をここで満を持して書きますけど、おのちゃ最推し勢の皆さんはウッディのおのちゃ観てなんで生きて劇場を出られたの?(無垢な眼差しを向けつつ)
無理じゃない?
生きて劇場から出るの無理じゃない?
クラブeXの床にゴロゴロ死体が転がってて然るべきじゃない?
ウッディだよ? おのちゃが…ウッディだよ?(言い聞かせる声で)
寒さに肩を窄め、お姉ちゃんに優しくされてにっこり笑い、手遊びをして、お姉ちゃんに縋ってべそべそして、お絵描きをして、ぐずった声でユジン先生に駄々をこねる…そういう推しが全力でショタってるウッディだよ?

生きて 劇場から出るの 無理じゃない?(無垢な眼差しを向けつつ)

もう、私「これコロコロの時期じゃなかったら、多分クラブeXなんか連日満席だろうし、この世にチケットある?案件になってたろうし、そんな観客数にこのウッディを見せたら、完全に大量虐殺になる。 おのちゃが虐殺器官になってしまう(伊藤計画が好きなんです)コロコロ時期でよかったね!ってそんな訳あるかーーーい!!! こんなおのちゃ、観たい人が全員観れた方がいいに決まってるやろ! シアターオーブ規模の劇場でも満席! 通路も立ち見で一杯!位の人数に観て欲しかったやろ!」と自問自答がやまない程の威力から畳みかけるようにアン!

アンくる?! アン、続けざまに来るの?! 死体蹴りじゃない? 見て? だって、もうおのちゃ推しの人みんな死んでるよ?!とか恐慌をきたす程に仕草から、声の音程から完璧に女の子な、可愛くて分別のあるアンが登場するわけで。
あすこのシーンは、私は押し殺した断末魔の悲鳴がやまなかった。
アンがジョアンから逃げ回り、先生の後ろに隠れたり(可愛いが過ぎんか?)机の下に隠れて彼女を拒絶し続けるシーンは詳しくは説明しないけど、私の性癖に刺さり過ぎて(つくづく私の性癖歪んでるなって思い知るばかりですね!)(他人事のように)口の中に溜まる涎が凄かった。
おのちゃ推しの人に詳しく解説して欲しいんですけど、おのちゃってどうしてあんなに他者の執着から逃げ回って、怖がって、震えてる姿が似合うんですか?
おのちゃの業ですか? 高い演技力故ですか? それとも、そういう風におのちゃを見る私こそ、己の業を反省すべきなんですか????

で、このアンからのノーネームがきて、マットに把握されないままに全ての人格を統べる彼のマットへの献身と、静かで虚無感に満ちたその佇まいを露わにすると、exシアターという距離の近さ故に思い知らされるおのちゃの造形の綺麗さに眩暈を覚えたし、空っぽのジョアンに己の全てを注ぎ続けた果てにノーネームが誕生したように思えて、私は自分の呼吸音すら憎悪しながらノーネームとユジン先生の対話に耳を凝らした。
フラッシュの中、各人間達が目まぐるしく入れ替わるシーンなんて、その時はただ魅入られて、私は息を呑んでおのちゃの身体が四方八方に歪むみたいに私の目には映っていて、その中から次々に現れる人々に呑まれていたのだけど、今思い出すと誇らしさを堪え切れない程の凄みのある演じ方をしていて。
あの光の閃光の中で、それでも些細な身動きと声色一つで、全員を次々と演じ分けていた。
あすこは、言うまでもなく役者の腕の見せ所で、その見せ所を想像以上の実力でキメてこられると「参りました」と唸るしかなくて、interview観劇中ずっとおのちゃに白旗振ってたけど、あすこで私は五体投地という完全降伏の体に至ってしまった。

あとはもう、抗う気持ちの一片もないままに、白眉と表現する他ない囲み舞台の真ん中で煙草を棄てて家に火を放つまでの耳が痛くなる程の無音の一時。
凄すぎて歯の音が合わなくなりそうな私にトドメを刺すように、高らかに絶望を歌い、炎の中に立つマットの姿に、全身がぶわああっと逆立つのを感じつつ、私は歯を強く噛み合わせてふーふーと歯の隙間から細く息を零しつつ、思考が摩耗しきって目から水を零し続ける以外が出来なくなりました。
泣く以外の何も私には許されてないと思い知りました。

天才の定義なんか知らん。
贔屓目だよって言われてもうるせぇって私は怒鳴る。
おのちゃは天才だ。
あの一連の芝居を観て、私はそう確信したから、もうそれでいいのです。

ジョアンという化け物を殺して、化け物になったマット。
綺麗で綺麗でバチバチってまた火花が散る幻聴をおのちゃの睥睨する眼差しに聴きながら、ユジン先生無理だよって何度も思った。
こんな風に化け物になってしまった人は救えないよ。
その証拠に、もうこんなに美しいのだもの。
幻の炎の熱さが私の皮膚を炙っていた。
感情より先に、全部私の身体が「凄い芝居を私は目の当たりにしてる」って教えてくれていた。

ラスト、マットはジョアンの制止によって自死を断念します。
私は前述の通り、連続殺人を起こしてしまったマットに対して「生まれてこなければよかったのにね」って思ってしまっています。
でも、同時にジョアンが自死を止めた光景をもって「それでも生まれた以上は死を許されるまで生きてかなきゃいけないんだろうな」って希望とも諦めともつかない気持ちを抱くのです。
多分、そういう「罰」もあるのです。
赤のマットは、ユジン先生の不屈の精神で施される治療によって救われる希望を私は想像出来るのに、青には少しもそんな印象を抱けていなくって。
青のマットは、ぼんやりと「いつかユジン先生に殺されるから、ジョアンはまだマットを死なせてあげないのかな」って思ってます。
ジョアンがそうであったように「怪物」になってしまったマットの自由は、死によってしか手に入らないような気がして。
いつか、私と同じ結論に達してしまったユジン先生が自分がされたみたいにベルトでマットの首を締め上げる、そういう未来が来るんじゃないだろうか?
その時こそが、マットが漸く救われる時になるんじゃないのだろうか?って考えて、私はユジン先生は優しいから、マットを殺してあげる結末はありえるよなぁって心底思ってしまうのです。

これで、私のinterviewに対する感想は正真正銘おしまいです。
文字数を減らす為に推敲したはずなのに、役者感想だけで一万九千字越え。
全体感想と合算すると、二万五千字もの言葉をinterviewに費やさせて頂きました。
長いよ! 書いてる私の、うんざり顔凄いし、読んでる人のうんざり顔も目に浮かんでいるよ!

それでも、私にとってはこれだけ言葉のいる舞台だったのだとお目こぼし頂いて、ここまで読んで下さった方に心から感謝したいと思います。

interview、これからどんどん再演して欲しいなぁ!
おのちゃのマット、また観たいなぁ!
再演時には、劇団EXILEメンバーはマストで出演して欲しいなぁ!と最後につらつらと強欲な事を書き連ねつつ、それではこの辺で。

他人事でした。