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JAM -the drama-  第5話感想

始まってから終わるまでの速度が5話は断トツで早くって、勿論それは私の感覚の話でしかないと分かってるのですが、リアタイ時には見終わった瞬間にポカンとしてしまいました。
「え? エンドロールが流れるって事は終わったって事?」みたいな、白昼夢から無理矢理起こされたみたいな呆然感があって、多分ヒロシの新曲をたっぷり聞かせてくれたり、「今夜涙じゃ帰れない」をフルでパフォーマンスしてくれた事もあって、物語パートが少なめだったのが要因なのでしょうが、本当に「終わったの?」ってきょろきょろしちゃったし、そんなに短く感じても、ちゃんと物語はこれまで通りとんでもない方向に進んでいたので「いや、やっぱりいつものJAMドラか」と納得させられてしまってもおります。
何しろ、第5話の醍醐味といったら久々にMASAKOが大いに笑い、スープを振る舞い、溌溂と輝く姿を見て「それでこそ、私のMASAKO!」と嬉しくなれた事でしょうか?
推しの悪口を言う奴には、即効性毒スープをお見舞いだー!!!とか、もう私も「かくありたい」とか思っちゃったもの。
劇団EXILEをdisるヤツらは、全員自作スープ(材料・製法が謎)の餌食にするぞ!とか私も張り切って生きていきたいもの。
これ映画から続けてドラマ見てる人共通の感覚だろうけど、あれ程反面教師として、また「おれたちが辿り着けない場所まで追いつけないスピードで駆け抜けてしまった」限界オタクとして、畏れの対象に鎮座していたMASAKOはもう私達とは地続きの存在ではなくなってしまいました。
映画では私はMASAKOになるまいと決意していたけど、ドラマのMASAKOにはなりたくてもなれんよ。
だからこそ、野放図に応援できると言いますか、乱痴気ショーで腰を振って踊る(あんなにねっとりケツって振れるもんなんだなって感心すらしました)ヒロシに吸い寄せられてこうとするMASAKOに、微笑みながら頷く事も出来ましたしタカシのマネージャーとの名コンビも確立されつつあって、JAMドラで女性同士の面白コンビが生まれている事に対する喜びと感慨深さまで感じてしまったのでした。
マネージャーがタカシの悪口言われたら「毒スープ制裁やむなし!」なタカシ過激派だったのも嬉しかったポイントで、先週回にて有能で敏腕なのにタカシと一緒にタケルプロに移籍しちゃった時点で「何? このマネージャー最高じゃん! 推せる!」ってすぐ心に決めてたのですが、タカシの悪口を言ったタレントのみならずマネージャーにも制裁を下して欲しがってた姿に、更にその気持ちが加速させられました。
でもさ、社長の武器が即効・毒スープで、敏腕マネが隠蔽工作請け負う司令塔で、裏のオーナーがサイコパスヤクザな事務所、どう考えても芸能界を恐怖手腕で牛耳っちゃうでしょうよ。
所属タレントも、元ヤクザが半数以上を占めちゃってるし、来週には暴力の化身が歌手デビューしちゃいそうだし、新興事務所だけど戦闘力の高さは業界1が約束されてるじゃん? 何でもありか?!とか思いかけるも、うん、まぁJAMだし何でもありなんだよなぁ初回からと、もう私も慣れたもんなわけですよ。

しかしドラマのワンシーンとしてもやっぱり、JAMの歌唱シーンってちょっと持て余すほどに豪華ですよね。
トンチキと「そうはならんやろ」のバイアスが常にかかり続けてるドラマだから、ヒロシが歌うシーンとか、面白場面の一端として一度咀嚼はするけど、咀嚼してる最中に「これ、凄いことやってない?」って気付きを得るみたいな事を繰り返してますし、第5話は特にその傾向が顕著だったように思います。
まず、シンプルに歌手活動から手を引く宣言してる青柳さんの歌をヒロシなら浴びるように聞かせて貰える現象の不可思議さに、私はずっと首を傾げてはいるんです。

映画JAMでの曲数と併せたら、もうヒロシ名義でアルバム出せる位には歌ってるんじゃないですか?
リサイタルでヒロシのアルバム売ってくれる気はありますか?
その際、青柳さんがカバーした「若者のすべて」も売ってくれませんか?

金なら! お金なら出します!と留まる事のない欲望を書き連ねつつ、ヒロシ本当に歌はうまいんだよなぁって、聞き惚れてもしまうし青柳さんにも、やっぱり歌ってて欲しいんですけど、本人が青柳翔としては思う所は在れど、役者としてヒロシ名義なら屈託なく歌えるという心境であるのなら、あの歌声を聞き続ける為にずっとヒロシ役はライフワークとして続けて欲しいなって気持ちにすらなっているんです。
その場合、曲がムード歌謡曲に限られてしまうのだろうか?という不安はまぁ、別にしてですね?
その上、今回本業はラッパーです!なすぅえーどんがタカシ名義で純烈とヒロシと歌いますという(しかも、曲が素直にいい曲)事態に陥ってる訳で、正気に戻ると小芝居・早着替えのすっとこどっこい具合に「これ、何見てるんだ?」とか「何を聞かされてるんだ?」とか冷静な私が呟きはするんですけど、まぁ、ドラマの速度が凄すぎて正気とか差し挟まれる余地はないですし、素直に心から「ヴィーナスのお歌聞けたらいいな」ってリサイタルが楽しみで仕方がなくなっているのです。

テツオも、今週も可愛いばっかりだったな~!
ラリアちゃんは、正直すぎるけど優しい子だって事はテツオの祖父母に対する態度でも分かってる訳で、好きになった相手に心底尽くしたり、他人の言葉に素直に心動かされたりするようなテツオが、彼女といれば「善き人」として振舞えるようになっていくかもしれないなって感じてて、ラリアちゃんのグラビア撮影にあんなに一生懸命送風係に徹する姿を見てると二人でずっと幸せになってくれって本気で祈ってしまうのでした。

可愛いといえばバースデーボーイズも衝撃的に可愛くて、思わずリサイタルに向けて団扇を作ってしまいそうになる私が爆誕致しました。
そもそも、ピーチさんの造形が美しい時点で私はバースデーボーイズパートで御機嫌になっちゃうのですが、その造形の美しい人に滝口が「クレア」で世良が「セーラ」と名付けられた瞬間、テンション爆上がりですよ。

セーラと!!!!クレア!!!!

声に出して呼びかけたいお名前過ぎる!!!
で、間を置かずシンさんのお顔を両手で挟むピーチさんのシーンでね!
「ヒューーーッ」って喉から木枯らし拭いてるみたいな音が出ちゃいましたからね!
ピーチさんの身長が巨人族揃いの劇団と遜色ない位に高いからこそ成立したシーンだし、私は秋真さんのガワした役が、そういう扱いを受ける場面を初めて見たもんですから、動揺して、動揺して、もう一回その場で立ち上がったし、その後しばらく言葉を失ったりもしたのでした。
ピーチさんが金城に言った「テレビキャメラもないのに謝罪してんじゃないわよ!」っていう台詞も最高なんだよな~!
ステロタイプのオネエキャラじゃねえぞ?!みたいな凄みすら感じさせてくれて、この先、ピーチさんとバースデーボーイズらのシーンも、私にとって大いなるお愉しみポイントになる事が決定されたのでした。

それにしたってドラマのラスト、MASAKOの毒スープ犯行が追及されるという展開に至った時に、確かに局で二度に渡って出演予定タレントが倒れるなんて事があれば、原因追及はされるだろうし、警察に相談だってするだろうと理解はしてるんですけど、あまりに破天荒な事しか起こらないせいか「ちゃんとしてる!」って驚いてしまったというか、世良と滝口が刺された時も「救急車が存在してる!」って驚きましたし、常識的な展開に対して驚きを感じるだなんて、あまりにLDHコンテンツの無法っぷりに慣れ過ぎたよな…と反省してしまう訳で。
作り手がLDH畑で育ってなければ、ちゃんとすべきところはちゃんとしてるんだ!と思えども、MASAKOに追及の手が及ぶ決め手が純烈の人の勘ってどうなのよ?とすぐに撤回させられるし、純烈の人の勘が凄い!という根拠シーンが先週予告で「何、この不吉な映像の連続! 来週何があるの?!」と不安にさせた、妙にリアリティのある犯罪者の連行される姿の連続だった訳で、このバランスが面白さの肝だと理解したし、面白さへの手間暇の掛け方が異常!と震え上がったりもしたのでした。
まぁ、とはいえ、散々感想を書き連ねましたが、やっぱり今週も「JAMドラの怖かったで賞」はタケルが受賞してしまった訳で。
MASAKOにド突かれて俯いたまま静止する不穏な姿を皮切りに「到着までに覚えていただきまーす」って平坦な間延びした言い方でヒロシに無茶を強いたり、ヒロシの乱痴気ショーを眉をひそめて眺める姿、かねてからの計画にとって都合がよかったのか単なる思い付きか突然ピンチヒッター歌手としてテツオを推薦するところまで、タケルが画面に映る度に「さぁ、怖いぞ!」と身体が条件反射で強張っちゃって、もうこの先暫くは、タケル=恐怖のパブロフの犬状態が私は続くな…と悟りつつ、今週の感想をこれにて終わりたいと思います!

あと3話か~!
無限に続いて欲しいぜ!

JAM -the drama-  第4話感想

第4話です!
先行公開を視聴したプレミアムな民にこれで追いつけた訳ですが、先行した民から漏れ聞こえてくる感想を聞いても「よし!何もお察しは出来ません!」と諦めたし、こんなにネタバレ配慮頂いて、ありがたい~!とか感謝してたのですが、第4話まで見た結果「見ても何もお察し出来ません」という結論しか得られてないので、JAMは凄いなぁと感心するばかりです。
あと、第4話を見終えて人生修羅場劇場(ポスターでやっと、芝居パートのタイトルが分かりましたね)(うん、人生修羅場劇場て)の作り込みがちゃんとし過ぎていて(セット数も多かったし、衣装もちゃんと揃ってたし)「ははーーん? これ、リサイタルで演りなさるな?」という覚悟を決める事が出来ました(逆に、これでリサイタルでこの演目全然やらなかったらズゴー!!!って私は前のめりに転ぶ所存です)
三谷幸喜のショウ・マスト・ゴー・オンみたいな感じになるのかな?
バースデーボーイズのショータイムも絶対あるんだろうな~!とか、リサイタルのチケットを無事押さえられたので、うきうき内容について想像しちゃってますが、推しの役だっていうのにタケルがこなすリサイタルにおける役割について思いを馳せると頭痛が痛くなるので(誤用)あんまり考えないようにもしている私です。

しかし、第4話まで見た上で私はJAMのそれぞれの展開に割く時間割合が相当狂ってるって感じてて、人間関係の構築に関しての大雑把さに比して、「ここで?! こんなに時間を?!」という場面がちょくちょくあるなとは思ってます。
第4話における芝居シーンとか、世良・滝口の倒れてる姿の空撮シーンからの救護シーンとかはまさにその好例だし、これまでも「物語」の筋に関係ない場面への力の入れ込み具合が半端なくて、ほんとに何もかもセオリー外なドラマよね、好き!ってニヤニヤしちゃうんですよね。
タカシ演じる飛車角の最後の台詞とか、「よ!名調子!」とか思っちゃったもの。
私、完全に入り込んで見ちゃってたもの。
まぁ、直後に「テツオ・MASAKO・タケル」の三人並びで観客席座ってる場面を見て正気に戻ったというか「『フィジカル』・『メンタル』・『人生』をそれぞれ壊せる名人達揃い踏みだ!!」って震え上がっちゃったんですけどね?
山下・金城も相変わらず衣装から何から可愛いし、芝居が面白そう過ぎて、ちゃんと成功する興行としての説得力があったし、タカシの団扇は勿論だけど、ヒロシの団扇を持ってるお客さんも結構いらして、ああヒロシが活動休止してる間もこうやって待ってるファンがいたんだな。
ヒロシの立ち回りとか、あれちゃんと稽古つけてもろとる格好いいやつやったけん、みんな喜んだろうなぁとか考えて、勝手に嬉しくなっちゃった。
いやあ、それにしてもSABU組の立ち回りを毎週見られる世界を生きるの、マジで健康にいいわ~!(イキイキと)

と、まぁね? そんな具合に私は大好きなんですけど、いよいよね?
劇団のオタク私をもってしても「これ、絶対好きな人選ぶわ。 映画JAMだと不穏な邦画好きな人にはお勧め出来てたけど、今回はある程度は劇団EXILE好きな人にじゃないと勧められないわ」と気付きつつあります。
疑問を抱いたらキリがない内容であるのは確かだし、見てる人間の理解を得ようという気概は一切ないから、こっちが必死についてくしかない事はね、それはもう、そうなんですよ。
ただ、このお話って大雑把で済ますところは古今東西、これまでありとあらゆる創作物において「お約束」で定型化されてる部分でもあって「詳しく書かなくても、もう人間関係出来てるの分かるっしょ?」みたいな委ね方もしてくれてるんですよね。
芝居の座組において強い絆が形成されてる事に対しては、前回の世良・滝口の言動もそうだけど、今回初舞台緊張してるレスリー・チャンチャンへの出演者からの声掛けとか、タカシの相手役の方への態度、テツオがいつのまにか演出の坂巻の事を「ちゃん付け」して褒めてる部分とかで示してるんですよ。
で、そういう細部表現で視聴者それぞれが自分の心に人間関係が出来上がってるんだぞ!という事を自分の中に落とし込むしかないというか、もっというとメタ的視点で「劇団EXILEだから、9人の間に絆が生まれてるの当然じゃん」って呑み込むしかないというか、逆張りで「こんな短い時間で、昔はタマ獲り合う位の敵対関係にあった連中が仲良く出来てるのウける!」ってコメディとして受け止めるという選択肢は一応用意されてるんだよな、とは考えています。
よし!全部の唐突さを「そういうもの」だとごっくんした!って思えるか、思えないかで病室シーンの受け止め方も変わってくるというか、私は世良が「壊すのもだけど、作るのはもっと楽しくってよぉ」って独白してから、滝口が小さく笑うところが大好きでして(ここで一瞬呼吸器が曇るの、とても良い。 すごくよい。 命って感じがする)(ていうか、病室におけるおのちゃの表情芝居が全部白眉であった。惚れ惚れした)
その後、テツオの薄く口が開いた横顔がアップになる流れっていうのが、これ以上何にも言葉がいらない人の心が大きく動く瞬間を見せて貰った気がするんですけど、それってこれまでの唐突を全部呑み込んでからじゃないと至れないというか、色んな壁に阻まれてしまう感情というか、だから本当にJAMドラって難しい作品ではあるなって思ってます。
いや、面白さに疑いを差し挟む余地はないんですけどね?
面白いのは絶対なんです。
これまで、こんな作品を連ドラでやった事ないだろって点を踏まえても、それはそうなんですよ。
しかも、緩急が凄すぎるとこが怖いっていうか、そんなエモーショナルなシーン直後にタケルが「分かりました」とか言って「何を?!」とか、こっちは身構えるし「タケルプロを設立します」とか身構えてる以上の恐怖ワードが出て来るしで、私の受けた感銘をすぐに帳消しに掛かってくるわけじゃないですか???

タケルプロ…やで?

たった五文字でこんなに怖い事ある??
私、世良と滝口のこと愛しく思い過ぎちゃってるから、すぐに美咲に掛けた声と同じトーンで「逃げて!」って言っちゃったし、ヒロシがタケルにジリジリと寄ってく姿を見て「更に面白くなってきたぞー!」とワクワクしたので、私の中における世良・滝口ペアに対する愛情とヒロシに対する愛情の種類の差も期せずして浮き彫りになっちゃったわけで。
んで、タケルがみんなを集めたレッスン場がタケルの組がオレオレ詐欺やってたフロアっていう妙なリアリティと、そんな場所で「僕が社長だと何かと面倒な事になってしまいますので」と縦にしても横にしてもやっぱり怖いよね?な事を言ってるタケルを見るだに「狂ってるって、こういう具合の車輪の回り方する事もあるんだな」って納得させられるというか、物語が違うタームに突入している事と、その原動力がタケルの狂気である事がありありと分かるというか。
それでいて、ご機嫌にバースデーボーイズのメンバー発表する時の、妙に言葉を溜めてはしゃいでる様子のタケルが私は何だか可哀想可愛くも見えてしまって(これは私がお町田さんを推してるから、こんな風に感じてしまうのか不明なのですが、美咲といる時もそうだけど1人だけではしゃいでるタケルは1人ぼっちの子供のようにも見えて、私はどうにも可哀想に感じるのです)まぁ、でも携帯を爪先で蹴っ飛ばし仕草はやっぱり「怖い」しか感じなかったので、私がタケルに感じる気持ちがただ、複雑化し始めているというだけなのかも知れません。
しかし、LDHコンテンツのドラマでダンス講師役が別事務所所属のダンサーとかいいの?という戸惑いも含め、ヒロシの乱痴気ショー発言や、駐車場歩く姿そんなに強い画力必要?とか、女社長MASAKOが綺麗すぎてJAMを貫く主題はMASAKOのシンデレラストーリーなんだなと納得させられた所まで、まぁ今回も色々最後の最後までトッポかこのドラマか?という位美味しいものが詰まっており、また5話から最終話までがプレミアで先行公開されたようですが、私のちったい過ぎるキャパではJAMドラを一気には無理!とすぐに答えが出たので大人しく次回をワクワク楽しみにしようと思います。

今週の木曜日も楽しみだぜ!

JAM -the drama-  第3話感想

Jamドラ第三話まで見守って、映画も抑えてんだし少し位は世界観と速度に慣れようぜ?とか心に決めていたんですけど「無理やで」って笑顔で肩を掴んで言い聞かされてるみたいに、無理やで回でした。
SABU監督の疾走感、連続ドラマで提供されると尋常でないのが分かり過ぎて、常識とかルールとか全然通用しないな!って、いっそ痛快さすら感じますからね。
ていうか、今回勝手に思い込んじゃったんですけど、SABU監督って劇団ちゃんのオタクなのかな?
いや、なんか映画の時は「物語を構成する一員として劇団EXILEが出演してる作品」になってたけど、ドラマ版は「劇団EXILEの為の物語が展開される作品」になってて、劇団箱推しのオタクの二次創作みてぇだな!とか何度か思いましたもの。
先の予測を立てる事を手放しで諦めてるという側面も私には備わっていますが、九人がいい加減で大雑把に、過去の因縁をあっさり放棄したりしつつ、因業因果に導かれて舞台公演に集い、共に歩く様に「こういう風な物語になるのか!」と、映画版のアッパーな仄暗さ(アンビバレンツしてる事は分かってます)からの変容に素直に驚いたしね。
キャラクター全員に相互の関係性を持たせて、劇団員を全員を同じ場面に集合させるのとか結構面倒臭いと思うんだけど、それでも劇団勢揃いの場面を作ってくれるとこに劇団箱推し人間としては「ははーん? つまり、SABU監督は相当劇団EXILE好きやって事やね?」とか勝手に類推してしまうわけで。
各キャラに付与された設定も、好意を抱いて貰ってるからこんなに可愛かったり、遊びのあるキャラになったんだなって映画版からの変遷に感じ入るのもファンとしては自然の摂理ですし、監督と私はこれで劇団箱推しメイツだね!二人はズッ友!と某地方都市の片隅で勝手に認定してニチャァと笑う位には、「劇団EXILEのオタクである監督(しかも手練れ)が撮った連ドラ」を視聴出来る事を嬉しく思う私もいるのです。

まぁ、ね! その9人のうち推しが演じるタケルだけが、突出して怖い存在なのはなんで?とか首を傾げるし、首を傾げたままタケルが乱入してきた組員の方々に指を落として貰うだの物騒な脅しをかけた後に笑顔で「差し入れ、どうぞどうぞ~!」とかやってる姿を見ると「SABU監督作品における町田啓太の最適解」としか思えないので「流石、劇団EXILEのオタクの劇団に対する解像度の高さ、パねぇぜ!」とか顎の下の汗を拭うのですが、しかしテツオの暴力性とMASAKOの狂気性って映画版jamのスピード感を担う両輪だったと思うんだけど、jamドラはその二人が可愛くなっちゃった代わりにタケルが狂気と暴力どっちも担う事になっちゃって、全方向に怖いという結果に陥ってるの、もう笑っちゃうよね~?(笑えない)

第三話において特に可愛い担当だったのがテツオである事に異論はないかと思うのですが、テツオが喋っちゃう事に関しては、私は結構寂寞っていうか、暴力しかコミュニケーションの方法を知らない男が語らない事で担っていたjamという作品の表現の豊かさを好んでいたので、事前情報で散々のぶが饒舌に「今回テツオは喋ります!」と訴えてる段階から「寂しいなぁ」って思ってたんです。
喋っちゃうのか~って。
ただ、連ドラになって彼の人間性の発露とか、恋に落ちて更なる極端さを発揮する様を役柄の魅力として発現したいとなった際に、ずっと喋らないでいるよりも「恋に落ちた相手に尽くして敬語になって、彼女のため以外には相変わらず喋らない」という手法はコメディ的役割の付与としても面白いなって思うし、正直テツオが「EXILEプロデユーサー」言うた時点で口に含んでた麦茶が全部霧になったので、ハイ、私の負けー!と認めざるを得ない訳ですよ。
この世でEXILEプロデューサーなんて思いつくのSABU監督だけやし、LDHコンテンツだからこそ口に出来る台詞をぶちかまされてしまっては「この一言の為にテツオを喋らせる事に決めました」って言われても「面白いから、しょうがないか」って納得させられる私がいるのです。

第三話は、第二話から比べると随分可愛げのあるというか(まぁ、タケルが怖すぎただけなんすけど)これからの展開の為に、急ごしらえにインフラを一気に整えました!みたいな回だったので私的には戸惑いも多かったのですが、同時に劇団ちゃんが雁首を揃えてわぁわぁ言い合う映画では見られなかった光景をjamという世界で見させて貰う事が出来て、このドラマもう、私の好きになる要素しかないな?と確信させて貰える回でもありました。
大衆演劇の筋立てが「あるあるあるある!」みたいな任侠物なのは前回からずっと面白いんですけど、加えて山下・金城はお洋服可愛いね?要員として、今回も舞台衣装がすこぶる可愛い姿見せて貰えたし、映画版では組での関係性が不明だった世良と滝口との丁々発止の掛け合いを見て、フラットな立場にあったんだなって知る事が出来ました。(あと、すんなり金城と山下は足抜けさせて貰えた上に、元組員に対してデカい口叩けてるって事は、どっかの組のフロントやってるような企業の構成員だったのかな?とか思いを巡らせる事が出来て楽しかったです)
チャンに関しては、メタ的な楽しみ方ではあるのですが世良の演出に素直に従う姿とか寛太とおざさんの関係ではありえないから、とても新鮮~!と嬉しくなりました。
ヒロシもタケルの正体が判明した途端、返事から表情から一気にキョドる様や、妹のありとあらゆる危機ですら他人事ムーブでやりすごす姿に「それでこそ、ヒロシ!」ってMASAKOみたいに「ヒロシーーー!!!」の掛け声あげたくなっちゃったし、しつこいようですけどタカシはヒロシと付き合ってた設定、どうなったんですかね?(忘れてない顔で)
ただ、タカシのヒロシに対する態度って「んべっ」って舌出したり、「ふん!」って生意気盛りな感じなもんだから、タカシとヒロシ再会したらどんな感じの間柄になるんだろ?と想像してた以上にめちゃんこ可愛くて、すぅえ~どんがこれまで演じた役としてもこういう類のキャラは超新鮮なので、只々目を細めて愛でてしまっております。

今回は世良と滝口だってどんどん可愛い子ちゃん化して、滝口はモノ作りの楽しさとか、まともに口を利いてくれる仲間が出来た嬉しさを素直に口にしてる様に、これまでこういう事を知らずにきた子なんだろうなってすぐに切なくなっちゃったし、それを茶化さずに肯定する世良もやっぱり切なくて、こういう切なさを彼らに付与すると監督が決めた事を寿ぎたくなりました。
だからこそ、ラストにおいて世良・滝口が服に悩んで公演に遅刻するなんて可愛いを差し挟んだ直後に、二人が刺される展開は「引きが強い!」と膝を叩きましたし、まぁ、バースデーボーイズのメンバーなので、命に別状はないでしょ!という安心感から、悩んで決めた白いスーツで刺される世良良すぎない?!って前のめりに堪能したといいますか。
ドローンで上空から撮影される血で一張羅を汚して倒れる二人の姿が最高だったというか、世良の白いスーツと赤い血のコントラストがハッとする程に鮮烈で、何もかも良すぎて「何もかも良い!」としか言えないなと惚れ惚れした事をお伝えさせて頂きます。

今回も推しのヤバ柔和怖い役であるタケルは、世間受けを狙った凡百の萌えキャラに収まらず、二代目という立場まで表明されてしまって、今回登場してないのに美咲の事を想うとハラハラと落涙してしまいそうな程に地獄怖かったですし、いよいよ来週には先行公開されている話数に追いつける第四話が見られる事も楽しみにして、今回の感想を終えようと思います。

 

 

 

 

JAM -the drama-  第2話感想

地獄の釜が開く音かな?って思ったらタケルの笑い声だったって書いて、これjamドラ第二話見た人にしか伝わらん感想だよなって分かってる。
穏やかな日差し差し込む公園で恋人と並んでベンツに座る推しの姿、類似光景含めてドラマで散々拝んできたのに穏やかに笑う顔がずっと同じ温度で。
タケルが自分と一緒にいる時に、彼女だけが見舞われた不幸について笑みを含んだ声で語り続けてる間、ずっと同じ笑顔でいる人間ってこんなに気持ち悪いんだって推しに思い知らされて私の目玉は徐々に裏返っていってしまった。

拒否だ、拒否。
怖くて。
見るのを目玉が拒否ってた。


流れてくる映像は全部コントで、出演者も監督も笑いながらこれ撮ってたでしょ?って分かってる。
現場はそりゃ楽しかったでしょうよ!ってちょっと怒ってる。
最後のタケルが立ったらベンチが傾いてズゴー!!みたいなのだって、もう美咲の足が「はいはい、スケキヨね!」みたいに生えてるとこからして、全編コントなんだけど、ごめんな? やっぱ、笑えねぇんだよ(泣きながら)
いや、笑いつつあったけど、私の力不足で笑いきれんかった。
笑う程には、私の胆力が及ばなかった。
ていうか、ここにきて映画で「この役に清水くるみは勿体ないお化け案件!」って喚いてたのを取り返すみたいにくるみちゃんが凄くって、不安の中に少しずつ恐怖を混ぜていくのを言葉なく表情だけで見せてくれて、その表情に見てるこっちの気持も引き寄せられていくんですよね。
タケルの「ヤバさ」を肌で感じちゃってる表情っていうか、全身の毛が徐々に逆立ってタケルから少しでも離れようとする仕草とか、全部が全部視聴者の共感を呼ぶやつで。
彼女の芝居がなければタケルの恐ろしさは成り立たないし、少しでも「いや、言うてもタケルみたいな顔の良い男に想われるんだから良くない?」って羨ましい気持ちが湧き上がったらタケルと美咲の関係って成立しなくなる訳で、そんな気持ちを微塵も感じさせない死神に心臓握られてる最中みたいな美咲の表情に私までタケルに心臓を握りしめられてるような心地がしてゾッとした。
明るい陽射しの下であっという間に「歪み」が提示されたタケルと美咲の関係性に私は白目剥きそうになる目玉を何とか引き止めつつ、これまで夢見心地に語ってた「推しに人生狂わされたい」なんて言葉、所詮戯言でしかなかったんだって気付かされた。
推しの顔した男が付き合った相手の人生を狂わせる様を見て「許して下さい」って神という名のSABU監督に私は咄嗟に祈ってしまった。

大体さぁ、jamドラ直前キャスが、ほんとに平和だったのよ!

あ、これ文句なんですけどね。
キャスの秋真さんが私の凄い好きな秋真さんで、おのちゃのからかい方も、まさやすへの態度も、遅刻おざさんへの弄り説教ムーブも顔も全部好きで、私ずっとニヤケ顔でしたもの、この時は!
もう「秋真さん、だーい好き! 秋真さん、リアタイしながらアベマのコメント読むって言ってたよな? よーし! 私もテレビで視聴しつつスマホでコメントとか張り切ってやっちゃうぞー!」とか決意してる私バカ。
秋真さんの可愛さに、調子に乗って


なんてツイッタに「ほらほら~! 私ったら死亡フラグ立てちゃいますよ?(チラッ)」なツイートしてる私の舐め具合がクソバカ。
Abemaにコメントなぞ、たった一言「キャスからきました!楽しみです」みたいな事を流した後は完全に沈黙の戦艦状態だったし、死亡フラグはきっちり回収した上「タケル怖いとしか何も言えません」という仮にも感想書きブロガーとして「ダサオブダサ」なツイートしか呟けんくなっとったわい。

可愛い劇団四人のキャス直後にタケル見る私の気持といったら、もうね?


高低差がエンジェルホーーーーーーーーーーール!!!!(憤怒)


地面に辿り着く前に風圧で身体がバラバラにされるやーーつーーーー!!とか、今になって感想に怒りをぶつける事出来ますが、放映を眺めてる私の表情といったら、全編作画楳図かずおでお送りしております具合であった事を机をダムダムしながらお伝えさせて下さい。
大体、冒頭からお送りされるタケルと美咲の思い出話時点で「別れな」って心からの声で呟いてたものね。
もう、美咲のお母さんか私かっていう位の真剣30代喋り場ボイスだった。
ダメだ、あいつ。(色々考えてこの言葉しか出なくなった)
一刻も早く美咲には逃げて欲しい。
映画のタケルからちゃんと辻褄あってるのにドラマ版で見た事ないタケルの「怖さ」を剥き出しにしてくる手腕が見事過ぎて卑怯だと思うし、24CL深夜のjam上映会でタケルについて「この人が一番いい人って事ですね」というような事を述べていたバリちゃんらには、どうにかして謝りたい。
お町田さんを推してる身としては勝手に謝りたいと罪悪感を抱く程にドラマのタケルは一線を越えた非人道的存在である事が明確に提示されてしまって、私はずっと「地上波無理だと分かっていても、地上波にこの町田啓太を放流したい」と切望してしまっておりました。

推しが世間に阿鼻叫喚を巻き起こすとこは…さ?
見たいやん?
オタクの夢やん?
推してる身としては、沢山の人間が推しに怯える地獄を目の当たりにしながら同じ地獄に堕ちたいやん?
全員で血の池地獄という名の推しの沼に浸かろうぜ~~~!!!!とかコールしつつレスポンスを待ちぼうけしてる私は、何とか沢山の人にjamドラを見て貰う為なら「タケルって役は町田啓太演の魅力が大爆発していて、記憶を失った恋人を取り戻す為に色々頑張る話なの! 頑張り過ぎて、ちょっと空回りしちゃうトコロもSO CUTE! 今世紀最高のタケルの恋は絶対に見逃さないで!」位の嘘は吐いてないけど、微塵も真心のこもってない宣伝文句も捻り出せる訳なのですが、jamドラ2話視聴後の各所での感想を見るに素直に「町田啓太が美しい人間の形をした『地獄』を演じています」と述べた方が見てくれる人が多い気がするので、この感想を更新後に折を見てツイッターでも呟いておきますね。 

しかし、第二話に限って言えば(いや、第三話以降もこの地獄が続かない保証はないのですが)タケルのシーンとタケル以外のシーンにおける私の心境の違いがエグかったなって、今しみじみしています。

レスリーチャンチャンと可愛い山下・金城二人組のシーンなんてタケル直後という事もあって私の顔はデロデロに溶けてました。
冷静に考えると映画ではラーメン屋の主人だった若者が、いきなり香港の映画スターになってるとか名前がレスリー・チャン・チャンであるとか、元チンピラが事故を切っ掛けに超能力を手に入れてバラエティ番組のオーディションを受けてるとか、相当巧くやらないと成立しない設定だし、私もSABU監督作品以外だったら「そうはならんやろ」と呆然とさせられるところなんですけど、これが視聴者を冷静にさせない展開の連続で脳にパニックを引き起こさせた挙句、物語全体において「意味が分かる」と「意味が分からない」の配合が絶妙であるが為に「滅茶苦茶面白い」に強引に押し流されちゃってて、しかも監督がおふざけの為に仕込んでる立ち回りのシーンはガチでレベルが高いし衣装も素敵だから、一切冷めずに夢中にさせられちゃうんですよね。
秋真さんがチャイナなお衣装で立ち回る姿とか(そもそも黒ジャージに金アクセの時点で「好き!!!」ってなってた)、もう「前職で色々あったけど投げ出さずに最後まで頑張って積んだ徳がこうして返って参りました! ありがとう! おかえり! あの時、積んだ徳!」と、感情が振り回され過ぎて結果過去の自分に感謝しちゃいましたもの。
正気の沙汰とは思えない!
寛ちゃんの軌道が美しい円を描いて、最後に相手のこめかみに向かって角度を落とす素晴らしい蹴りも沢山見られたし、カンフーポーズ決める可愛いまさやすに私はヒーローショー見てる子供みたいに拍手させて貰ったし、SABU監督が劇団ちゃんコンテンツでふざけると色んなコスプレ見せて貰えて目に幸せだなって思って…うん、まぁ、お察しの通り劇団ちゃんの可愛いの力で必死にタケルの怖さを忘れようとしてるんですけどね?

そうやって必死になった結果、最早MASAKOすらね!
タケルの怖さから逃れる為の安息所になりましたもんね!

新感線クラスタからすると自分が劇団から辞める際に主宰に「替わりのヤツ連れて来い」と言われて古田新太を生贄に劇団から逃げ去った、云わば新感線クラスタにとって「恩人」とも言えるエピソード持ちのいっけいしゃんがMASAKOの亡くなった旦那さんを演じてるシーンは本当にテンション上がって、上がって。
私の大好きな小劇場の匂いがするー!とか深呼吸した瞬間に退場されてしまって「ふがっ!」とか咳き込んじゃったのだけど、MASAKO既婚者だったのね?とか、夫婦のご自宅の小奇麗さからすると、今MASAKOが住んでるお家の様子からして色々苦労したのかな?とか思いを馳せちゃったり、猟奇的にヒロシに入れ込む事になった経緯について考え込んでしまったり、MASAKOに対する感情が映画見てる間もだけどドラマにおいてもどんどん変化を促されてしまって、Jamドラのジェットコースター感の源ってMASAKOにあるよなって再確認させられたのでした。
今回タケルという超ド級の生き地獄が出現したせいもあり、MASAKOが回想シーンがどのシーンもドラマクォリティではない短編映画じみた美しさだった事もあって、彼女が私の中で猟奇的トップオタからまた別の物語性を孕み始めてしまったのよね。
まぁ回想シーン直前にスタスタ歩き始めたMASAKOの姿には「歩けるんかい!!!」ってドラマリアタイ勢と心を一つにさせては貰ったのですが、SABU監督笑うのと怖がらせるのとしんみりさせるのを全部ごちゃ混ぜにして「ワンプレートランチっす」って提供してくるもんだから、視聴者は笑いながら怖がったり泣いたりする病的な心境まで追い詰められちゃうんだよなぁって、ちょっと恨めしくも感じるのでした。

舞台稽古のシーンだって、業界をdisってる?って疑いを抱くスレスレの妙なリアリティと「なんて?」な展開のアンビバレンツ具合がおかしみになっていて、SABU監督のイキってないふざけ方ってやっぱ堂に入ってんだよなって何度も感心したし、青柳さんの立ち回りの腰の据わり方、浴衣の似合い方、マジで強そう感異常だったし、演歌歌手の肉体じゃないすぅえどんも堪能できたし、世良と滝口の組が借金のカタに興行仕切る事になる展開凄く面白い!って膝を叩いたし、川本成さんまでいらしてリサイタルとドラマの世界が地続き! 虚構とリアルの区別が曖昧になる!って大喜びしたし、もうねタケルの怖さなんて忘れた! テツオが大型ワンコな番犬よろしく健やかに劇場に登場してくれた事も含めて、大満足!
第一話で得た期待値以上にjamドラ第二話楽しかったです! よし、愉快な気持ちで楽しく感想書くぞ!と決意したんですけどね?
こうやって、感想書いても、書いても、タケルに取り憑かれたみたいに暗闇の中で緑の非常灯の下で笑う顔や、血を額から流しながら「どうして?」と問い掛ける声、美咲の足首を掴んだ手を蹴りつけられる様や、白い顔に赤い筋を刻み続けながら夜の町を駆ける姿が頭から離れなくて、他の事書いてても、美味しい物食べても、仕事中でも頭の片隅にタケルがいて、しょうがないので最後にもう少しだけ、対決するみたいな心境でタケルの感想を書かせて下さい。

第二話って結局、美咲が主演でタケルという怪物に執拗に追い詰められ続けるホラー作品だったなって、私は捉えてしまっているんです。
その結果、今のトコ私が推しが演じてる役の形容詞が「気持ち悪い」「生き地獄」「怪物」と酷い有様で、「ほんとに推してる?」って自問自答しつつ、推してるからこその物言いでもあるのですが、病院から逃亡を図る美咲を捕まえて(タケルが神様に「タイミング」という幸運を常にもたらされる特別な人間である事は映画の時点から明確に伝えて貰ってはいたのですが、まさかドラマ版でこんな悪意のある捻り方をして、その彼が賜った『ギフト』の見せ方をしてくるとは思ってなかった)「ぼくをしんじて?」と言いながら美咲の手首を握って歩き出す姿もう「連行」とか「拉致」とか「連れ去り」とか頭の中を物騒な言葉で埋め尽くされちゃったし、美咲も目を見開いて目の縁を真っ赤にして耳を掴まれて引きずられてる兎みたいにしか見えなくて、こんなに推しが恋人の手を握って歩く姿が怖い事ってある?とか脳が完全にバグってしまいました。
タケルは徹頭徹尾綺麗な顔をしたままでいるのに、愛らしい美咲の顔がどんどん憔悴して、前歯が目立つようになって、褪せて、枯れる寸前みたいな姿になっていくのも、ずっと怖かった。
美咲の悪夢に現れるタケルも怖けりゃ、最後ポットで頭何度も殴られても美咲を追いかけるタケルも怖くて、第二話の後で自分でもどういう心境なのか計りかねるのですが、映画jamを再生して、タケルが車待機してる際にトイレ行きたくなってる姿を見て「よし、少なくとも生理現象がある生き物!」って確認して少しの安堵を得る位には、町田啓太の容姿はタケルの人外魔境味を助長していました。

お町田さんだからこそ、タケルはこうなったんだなって思うし、SABU監督は、大きな白いスピッツみたいだと評した男にこういう役をさせるんだって、その精神構造に惚れ惚れしてしまったのです。

今、TVに映る度にトレンド入りする、そういう役者になった町田啓太を安易な役ではなく、タケルという脳に焼き付くような、他の作り手では絶対に生まれないような、特異な「おぞましい」キャラとして表出させた。
おぞましい推しを私は全身で享受し過ぎて、ちょっと具合も悪くなった。
その事が、私は嬉しくて嬉しくて。

うん、書いて初めて気付く鈍さに驚いてるんですけど、そうか、嬉しいのか私は。

今やっと、ここまでの文字を費やして、感想として文字を書いて書いて、なんて迂遠な人間なんだろう。
文字で遠回りをしないと、このゴールを見つけられないなんて、面倒臭いオタクだぜ!って自認しつつ、私は町田啓太が演じるタケルのおぞましさ、気持ち悪さ、恐ろしさ、境界の向こうの生き物としても生き地獄っぷりが大好きな事を若干の敗北感を抱えながら認め、具合が悪くなる程に嬉しがっておりますので、「あー、体調悪くなるんだろうな」って覚悟しつつ、第三話も楽しみにしたいと思います。

 

そっか、私は推しの生き地獄役が嬉しかったんだ。

 

JAM -the drama-  第1話感想

すごいものを見た

jamドラマの第一話の感想です。
私は始まって3分くらいの地点で「助けて」って声に出して言っていた。
何しろ、お久しぶり!の横山田ヒロシが世紀末の世界で、名優・千葉哲也さんにブルーバードを呼ぶ歌声の持ち主として命を狙われているのである。
この時点で百万回の「なんて?」を贈りたいのだけど、次の瞬間にはヒロシはロカビリースタイルで歌謡曲を歌い踊っており私の「なんて?」は空中に消えた。
答えは返ってくる筈もなく、瞬きする度に場面が目まぐるしく変わっている。
世界で一番縁がないでしょ?というような場末の酒場で三代目JSBのお洒落番長NAOTOさんが「生まれた時から着てました?」てな位にお似合いあそばす作業服で酔い潰れてる姿には「ドームで踊ってんのこちとらフラッグ振りながら生で見てんだよ!!!」と訴えたくなるけど、もう「ダンシング・マリー楽しみにしてます!」しか伝える心の余裕はない。
何しろ、テレビ画面にはラップで武道館を沸かせるSWAYが、かの名曲「MASAKO」を熱唱しているのである。
似合う…似合うわ…お着物。 凄いガタイの良い、滅茶苦茶顔面の強い、派手な髪色の演歌歌手って一度沼ったら他では満足できなくなる位の癖の強さだけど、私ホール会場でタカシの団扇振りに行っちゃう気がしてならないわ。
しかも、後々分かるのだけど、映画では台詞の少なさのせいで察せられませんでしたが、この子相当なおバカさんですよね?
可愛い感じのおバカさんですよね?
純粋なおバカさんですよね?
これ、ちょっと載せ過ぎじゃないですか?
すぅえーどんの厚い胸板に夢を載せすぎじゃないですか?
タカシのキャラ、サービスが凄すぎて、これで昔ヒロシと恋人関係にあったっていう設定生きてたら私が観測できる一体が焦土と化す予感しかないのですけど、SABU監督には大量虐殺の覚悟はあるのでしょうか??
まぁ、ヒロシがね! 暴力の嵐に見舞われて(SABU組お抱えの組員は佇まいが全員気合入ってて素晴らしい。安っぽさが皆無。つまり暴力の密度がガチっぽくて痺れる)「すいません! すいません!」って地べた這いずって謝ってる姿を見た時点で「ありがとうございます」と、既に天を仰いで礼を述べた私ではあるんですけどね!

そんなヒロシと対照的に映画では「これで死んでなきゃ、もう不死身って結論以外出せないんですけど?」って姿で登場場面を終えたテツオが全力で生きてて、ていうか「生きてますけど、何か?」っていう風情で生きてて、いや、そんな風に生きていられたら私も「じゃあ、不死身って事で納得しておきます」としか言えないし、テツオのおじいちゃんも生きてるし、ドラマだとロケ地違うみたいだけど北九州市の住人みんなこんななの? 冒頭のオープニングでヒロシが言ってた荒れ果てた世界って北九州市の別名?と、もう怯えるしかなくなりまして(北九州市への熱い風評被害)
海で流されて、三年泥棒と暮らして、その泥棒が死んだらアガリをガメて妻のところへ帰ってくるじいちゃんと、そんなじいちゃんを明らかに映画jamでは認知症発症してたのに夫の無事を確認した途端シャンとして盗んだ金で海外旅行いっちゃうおばあちゃん見てると、テツオの不死身設定も、暴力がコミニケーションツールなところも血のせいかな?と納得を覚えるしかないのですが(?)
まぁ、そんなテツオが恋に落ちる事は事前情報で分かっていて、のぶの凄いところは表情だけで「ああ、人を好きになったんだな」って思い知らせてくれる表現力だし、その瞬間いっぺんにテツオの表情が可愛くなって、あどけなくなって、見てる世界が一気に様変わりした瞬間の人間の様子を見てるみたいで、とても好ましくって、そんな風に唐突にテツオの小さな恋が始まって「この恋も主軸に一つとして物語が展開してくのかな?」と察した瞬間に恋は終わったんですけど。(いや、ラリアちゃんのデート相手お兄ちゃんだったから、真実を知った時からまたテツオの恋は続くわけですが、それにしたって失恋までのインターバルが短い)

もうね、びっくりした。
わたし、びっくりした。
このドラマ、そもそもびっくりさせ過ぎなんだけど、まぁ、テツオの恋の物語の起承転結の早さもすっごいびっくりしたよね?
テツオが恋に落ちて、暴力ふるって、指輪買って(怖い!素直に怖い!思いつめる速度の速さが怖い!)、オシャレして、失恋して、ヤクザにノされて、ヤクザに拾われて、また暴力ふるうまで10分もないの。
時間、10分もかかってないの。
そして、BGMが「舟歌
もう、前代未聞。
舟歌バックの暴力&失恋は聞いた事ないし見た事ないし、多分これからもない。
この世で一つの宝物という意味ではワンピースに匹敵する(何言ってるか分からないゾーンに入って参りました)
LDHコンテンツ名物として、エモーショナルな歌と共にお送りされる暴力には慣れっこな私ですが、斬新すぎて演歌バックの暴力の時代がこれから来るぞ!と一瞬勘違いしたし「いや、これを見られるのは劇団EXILE総出演コンテンツだけだな」ってすぐに正気を取り戻しちゃった。
ていうか、ヒロシといいこの町では道に倒れてたら、顔の良いヤクザに拾われなきゃならんオキテでもあんのか?
拾う方も拾う方で、刺しましたよね? 世良さん、テツオのこと刺しましたよね? その上で死を確信したから放置したんですよね?とかは思うのですが、あすこまでやって生きてんなら、もうケジメはつけたと見做してんのか、どっこい生きてるような生命力の持ち主(しかも天性の暴力装置)は組にとっては最高の逸材だと見込んだのか?
私、jamの世良のSABU組ヤクザの中においても際立つ存在感とか異質な怖さが大好きなのですが、その印象を裏切らない危うい度量の見せ方が凄く色っぽくて「ふぉ~」と溜息漏れちゃいました。
世良が笑いながらテツオを刺すとこ、また見たくなっちゃった。
だって、この展開を得て、あの場面って滅茶苦茶エモくなっちゃったもんな。
この世良の「うちに来るか?」の一言の説得力で「ああ、そういう世界だ」って納得したし、テツオが暴力を振るう姿を笑いながら「見守る」(世良の眺め方って、見守る眺め方なんですよね)佇まいに惚れてしまいました。
滝口の面白がり方も「うっめぇなぁ!」っていう面白がり方で、最高じゃなかったです?
私、アーカイブで滝口がテツオが暴れてる姿を笑って見てるとこ何回も見返したんですけど、本当に巧いの。
短い出番で、滅茶苦茶巧い役者なの思い知らせてくれるのが小野塚勇人の凄みだし、醍醐味だなって再確認したわ。
世良と滝口についていくテツオの少しでも優しくされたら心を奪われてしまう孤独感の補強もされて「舟歌」からテツオが拾われるまでの一連のシーンの無駄のなさと説得力と役者の凄みのバランス、とんでもないし、SABU監督の凄さも改めて実感させられました。

 

一方その頃、タケルはタケルで前回の時点で顔の良さを凌駕する気持ち悪さで名を馳せてたけど、今回もベンチに座ってMASAKOとヒロシとの地獄の3ショットを見せての会話シーンは「ホラー映画なら事前にホラー映画と告知しといてくれ!」の怖さでしたね!
「これってもしかして、(俺たち・私たち)、入れ替わってるー!?」って左右の膝が何度か入れ替わりそうな位震えてぶつかったっつうの。
そもそも、タケルってばヒロシを拾うの二度目だし、二度もヒロシを拾えるとか運がいいね!ってちょっと羨んだんですけど、二度目にしてもう慣れっこ感出てる辺りが既に怖いのよな。
加えて、病院でのヒロシとのやり取りがずっと絶妙にコワ面白いんですよね。
量子学的に少しだけ選択肢が違って派生した別世界の同士で喋ってるみたいな噛み合わなさ。
オオストーンラリアのくだりとか、よく笑わずに演じ切ったと二人を褒めたい具合で、私jamドラ第一話を布教する時が来たら多分このシーン見せるだろうなって決心してます(理屈抜きで面白いから)
タケルの回想シーンも、タケルが恋人だと言い張ってる彼女、本当にお付き合いしてる相手ですか?の謎は残っちゃいましたもんね。
なにしろタケルの目が怖くて、怖くて。
あんな目をする男と真っ当なお付き合いが出来る相手って、それはそれで怖い人って事にならない?って考えこんじゃう位怖い目してる。

なんでしょうね?
あの目の温度感というか、色合いというか、とにかく表情込みで凄い怖いの。
執着の塊みたいな目をして彼女を見ていて「長い眠りから目が覚めたら、見知らぬ顔が国宝級にいい男が私の事を恋人とか言い張ってるんだけど、その人の正体は実はヤのつく組合の若頭で、これから私どうなっちゃうの~???」みたいな、月9ドラマにだってなりそうな展開なのに、タケルの目が「そういう物語じゃないからね?」って、私に言い聞かせてくるの。
なんか、先行配信御覧になった方々からタケルに関しては断末魔みたいな感想が漏れ聞こえてくるし、これはもう覚悟を決めるしかないぞ?と、震え上がりながらタケルのこれからに期待しときますね。

しかし、ヒロシも青柳さん・お町田さんの事前対談でお知らせ頂いた通り相変わらず主体性なく、虚ろで、流されるまま、抗う事無く落ちぶれていて、青柳さんの落ちぶれって、青柳さん独特の凄みがあるんだよなとか私は感心しました。
しかも落ちぶれのパターンが豊富。
おのちゃの事、苛立ちの表現の百貨店やで~!と私は常日頃から感じてるんですけど、青柳さんは落ちぶれっていうかダウナーなテンションの表現が凄すぎて、おのちゃの「苛立ち」表現と並ぶ、青柳さんにとっての役者として武器だよなって感じ入りました。

まぁ、そんなヒロシが空っぽのまま魔女MASAKOの導きでガラスの靴を履かされて、シンデレラの如く階段を駆け上がるのか、二人で地獄の業火に炙られる事になるのかは全く分からんのやけど、MASAKOロケットでヒロシの胸に飛び込む姿を見て私を泣かせた彼女が、とうとう名実ともに、誰も文句のつけようもないトップオタとなった訳で、その事だけはなんかスペシャルハッピーだなぁって思う私と、滅茶苦茶怖いやんけ!と気付かずにいられない私もいるんですよね。
MASAKOみたいな女がトップオタになっちゃうのは、やっぱ不味いんだよな、倫理的にもって冷静な私は判断してるので、SABU監督はどうやってMASAKOを始末するのか?という視点からも楽しみにしたいなって思っております。
何しろ、MASAKOのMASAKO無双も相変わらず健在で、車椅子が一定のリズムを刻んでベンチにぶつかる音も、MASAKOスープ(改)の即効性の威力の恐ろしさもさることながら彼女がこの先、どのような暴走を見せるのか? ヒロシへの執念を貫けるのか?も怖がりながら、楽しみにして来週を待とうと思うし、私の喉から「助けて」を絞り出させた奇想天外な第1話オープニングがただ監督が青柳翔で遊びたかっただけなのか、何かの伏線になっているのか?(なってたら、私はやっぱり物凄いびっくりする)も、油断せずに最終話まで見届けようと思います。(あと予告の彼女に血塗れにされるタケルの横顔が怖美し過ぎたので、あの姿を本編で見るまでは絶対に生きる覚悟も決めてます)

 

映画のjam感想文にも書いたど、SABU監督作品でしか得られない爽やかさの一切ない疾走感を物凄く浴びられる第1話の事、私は最高の最高に大好きだぜ!と嬉しくて仕方がなくなってしまったので、最後まで見てる人間が誰一人として追いつけないような速度で駆け抜けて欲しいと願っております。

 

 

interview 各役者感想

interviewの全体に対する感想はこちらです。

momizi-part2.hatenablog.com

 

 

さて、それではinterview各役者の感想を書き連ねたいです。
まずは、キム・ユジン先生から。

赤のマツさん。
LDH事務所内において、芝居方面の先駆者的な位置づけにある印象があったので兎に角一度観てみたいと切望していた方でもありました。
優れた作品に出てる際に拝見すべきだと思っていたので、interviewで観られてよかったって心から思います。
ツイッターでも呟いたのですが、歌う事を生業にして来なかったLDHの役者がミュージカルに初挑戦した際に、どう在るべきなのかという一つの解をマツさんのお芝居で得たような気がしています。
まぁ、ただ「LDHの役者」と限定したし、もっというと『パフォーマー出身のLDHタレントが勇退後に役者の道に進んだ際、ミュージカルに出演したらこうなった』みたいな、転生主人公物かな?と首を傾げてしまう程に長い前提付きなんですけど、interviewをこれからLDH主催で再演を重ねていくとして(出演者の言動を見るに、相当可能性は高いと思います)マツさんの演じ方にその解を見たなという気がしたのです。
というのも、マツさんはさぁ、ほんとにダンスが巧いんですよねぇ(EXILE初期メンに何て、言い草だ!とは分かってますが、私はプロの漫画家さんに『絵、めっちゃ巧いですね』と心から言って相手に『もう、絵については褒められなくなってしまったので嬉しいです』と言わしめた女なので当たり前体操な事を言うのに躊躇がないのです)
音に合わせての身体のしなりや、全身にぐっと力を込めて身を縮めてから解放するみたいに腕を伸ばす動き、その際に浮かべる苦し気な表情全部「これが! ドームをダンスで沸かせ続けた男!」という圧倒的な表現力があり、私はぐんぐんマツさんに視線が引き寄せられて「これ、クラブeXで観ていいやつ?」とかお得感すら覚えておりました。

だって、あの距離で観るには、表現力の圧が強すぎませんでした?
私、格闘マンガの登場人物みたいに腕を顔の前でクロスしながら後ろに吹っ飛びそうだったんだけど?
感情を表現する術を歌以外に分散したというか、歌は「歌う事」に集中する分、歌ってない瞬間の表現を全て振り絞る様にして表出してる様がとても美しくって、私は何度も息を呑んだものでした。
あとね、声量が素晴らしかった。
クラブeX、音響良くないじゃないですか?(突然の劇場dis)

返ってくる音はないし、プツンって音が殺されるから役者が出した声をそのままダイレクトに聞くしかない感じがするんですけど、マツさんはお腹から引きずり上げて喉一杯に声を使ってらして、つまり激情に任せた声を野放図に振るって下さって、一切の物足りなさを覚えなかった事がとても嬉しかった。
いや、もう、ミュージカル素人なもんで(デヘヘと頭を掻きつつ)
コントロール完璧な歌声の素晴らしさも分かるんですが、魂を絞ってるかのような後先考えてない歌声に無条件に感動してしまう性質持ちなのですよ。
巧い歌は大好きさ! でも、懸命な歌も大好きだ!
だから、お町田さんだって歌えばいいじゃない! 懸命ならいいじゃない! interviewでマットを演じてみたっていいじゃない! いや、お町田さんのユジン先生役だって観たくない訳じゃないぜ?(このタイミングで自分の欲望を連続で吐露する私の蛮勇を褒めて欲しい)
加えてマツさんってばあの声を、ずっと稽古期間から公演期間中出し続けてて一切喉が萎れてなかったとするなら、喉強すぎない?と驚嘆。
マット達を威圧するかのように大声を出すという一点においても、今回の役者にない特色となっていて、それがとても良かったなって思いました。
他の役者にないという意味においてはマツさんのダンディな佇まいも素敵で、異国感を醸し出すのに一役買っていたし、赤Verはお蔭で舞台が雨のロンドンにあるという設定の説得力半端なかったもんな。
台詞回しも相当洋画っぽさがあって、赤と青はそもそも国が違う!と感じさせられたものでした。
加えて、マツさんのユジン先生からはインテリっぽさよりも、素朴かつ粗野な印象を受けたんですよね。
朴訥として、素直で、真っ直ぐで、熱くて、自身の信じる正義の為にマット達の前に立っている感じがしたし、だからこそあの変幻自在で、手を伸ばした指先で尻尾だけ掠めさせて、どんどん別の人格に逃げ回ってくようなマット達を真っ直ぐ貫いて、最後に捕まえる事が出来たような気がした。
ユジン先生のマットに対するアプローチが赤と青では全く違うように見えたのです。
私は赤が極めて寓話的に感じたのは、三人各々の役割がシンプルに分かり易く対立するものとして観られた事も大きいかもしれないなと考えています。
マツさんのユジン先生は明らかに、マット以外の人格に敵対し、排除しようとしていました。
その激しい口調、振る舞いが後半、真実が明らかになるにつれ自分が守ろうとしていたマットこそが「怪物」だったと知った時の絶望感を、観客の感情もろとも同じ景色を見せるまで手繰り寄せ、同じ悲しみを味合わせるところまでに到達させてくれた。
ユジン先生が私の気持に寄り添ってくれた事によって、物語の構造をシンプルに、分かり易く伝えてくれたように感じているのです。
あとね、観る前からマットとユジン先生の「年齢差」が、どう効いてくるのか?という事に興味を抱いていたのですが、マツさんと糸川さんの年齢差が未成熟な若者とベテランで人情派な精神科医という関係性を視覚的にも浮かび上がらせて、マツさんの太くて力強い声が『正しくあろうとする人』としての説得力にもなっていて、マツさんの持ち味こそが赤.verの印象を大きく左右したなと確信しています。
特に年齢差が功を奏したという意味においても、マツさんのユジン先生で白眉だったのはウッディとの遣り取りだと思うのですよ。
まるでマツさんという人の人柄が滲んで見えたような、暖かで、優しい、親切な声と表情。
「字が読めないんだ」と幼い声で語るウッディにマツさんの身に纏う空気が一変して、怖がらせないように、傷付けないように振舞おうとする仕草が窺えました。
多重人格である相手に相対するユジン先生は、自分が相手をする人格に合わせて態度を変えていかねばならない訳なのですが、マツさんのユジン先生は『子供』のように元来保護されるべき存在、大人が守るべき存在への態度が本当に素晴らしくて、あのユジン先生を見た瞬間いっぺんで赤のユジン先生の事を好きになっちゃった人は多いのでは?と勝手に推測。
先程までジミーに相対していた時とは全く違う、ウッディの心に暖かな手を伸ばす態度は赤のユジン先生がどういう人間かを知らしめる事にも一役買っていたように思うのです。

まぁね! 言うても、やっぱり歌声にはドキドキしたし(でも、嫌なドキドキではなかったです)その前提があるせいか(つまり、歌に気持ちを持ってかれすぎていないか? 加えて段取りの多さに、ミスりやしないか?って、心配はしていました)(その後、共演者のミスのフォローを咄嗟に行い、その行動に一切違和感を抱かせないという『惚れてまうやろ!』な技を見せてくれた時に、物凄い失礼をぶっかましていた事を反省もしております)青よりもたっぷりと間を取るお芝居だったお蔭で、相当途中「台詞すっ飛ばした?!」とハラハラした事もお伝えしつつ、マツさんのお芝居他のも観てみたいな~!と心から思えている事を嬉しく感じております。


お次は、青のユジン先生を演じられた丘山さんなのですが、観劇前にツイートとか見るだに「人格どうなってんの?!」とか慄く程のハッピーオーラに当てられておりまして、マツさんとの佇まいの差もあり、同じ役やる人とは思えん…と震え上がったりもしたものでした。
丘山さんも2.5次元で鳴らしてる役者さんという事で、今回interviewというお芝居で出会えて良かったなって凄く思います。
何しろ、公演前から公演後に至るまで一切ネガティブな言葉を吐いてないんですよね。
かっこいい~!みたいな。
あの、意味を判じる前に「スペシャルハッピーでーす!」みたいな文字と絵文字の羅列に圧倒されて、「お、おう…」みたいな反応しか出来てなかったんですけど、お蔭で私何を見せられるのか一切想像できないまま劇場入りできましたし、あのユジン先生の中の人が、このテンション?!とか思うと味わい深くって。
どうしても私の嗜好として、小劇場系演劇を好んできてるものですからこういう機会でもなければ絶対に知る事のなかっただろう、2.5次元俳優さんの実力と言うものを思い知る事が出来ました。
私、何度も心を打たれるって事は何度も忘れてしまいそうになるおバカさんって事なので、本当に逐一自分に言い聞かせていきたいのだけど、自分の知らないジャンルでご活躍されてる人を、イメージだけで固定概念を抱くような事は絶対にならんのよね、絶対に。
丘山さんのユジン先生には、スマートでハンサムでクールで知的でそして、全体感想で述べた通り境界上に立つ危うさを私は感じました。
歌声は澄んで、高く、そして感情の高ぶりをビブラードに乗せて空間を震わせる。
最初のうちは冷徹な程に距離感を保ち、マットから人格を引き摺り出すべく手ぐすねを引いて用意周到に次々と現れる人格達に対峙しているように見えるのに、新たな人格達が少しずつ明らかにしていく真実にズルズルと引きずり込まれてくように見えて仕方がなかった。
赤のユジン先生がマットに対して抱く「救いたい」という気持ちと、青のユジン先生がマットに対して抱く「救いたい」という気持ちって、性質が違うように見えるんです。
赤が父性的な「救いたい」だとするのなら、青は母性的な「救いたい」に見えた。
力強くマットの腕を引き、正気の世界に留めようとしてる赤に比べて、青のユジン先生は「一緒に狂ってあげる」ように見えた。
一緒に狂って、傍にいてあげるユジン先生に見えた。
だから、赤のユジン先生はマット以外の患者も抱えて精神科医としてこれから沢山の人を救っていけるような、そんな先生に見えたのに青のユジン先生は、もうあすこで終わってしまうみたいな。
先生としては終わってしまうみたいな。
あとはマットに寄り添って、彼の治療にその生涯を捧げてしまいそうな、そんな人に見えた。
私、だから沢山泣いてしまって。
ユジン先生のラストの優しいお歌に泣いてしまって。
彼岸に渡る人の鎮魂歌に聞こえてならなくて。
私は見送る気持ちになってしまって。
ああ、終わってしまうんだ。
この人の全ても終わってしまうんだって感じたんです。
マット・シニアは五人の女を殺し、姉を殺し、そしてユジン・キムの先生としての人生を殺した。
私は、そういう罪深い男の物語なのだって青に対して結論を出したのです。

私、共依存が大好きで。
あ、性癖の話です。
突然性癖の話されるの戸惑うと思うんですけど、構わず続けますね?(強引)
私、「創作の世界における」と前提は付けときますけど、共依存が大好きで、こういう言い出すって事はお前ロクでもねぇ事書くつもりだろってお分かりいただけた通り、青のinterviewをユジン・キム先生とマット・シニアが依存しあう間柄となる物語だと解釈した訳なのですね。
ジョアンを失ったマットが、今度はユジン先生と二人ぼっちになる話だったんだって思ったから私は青verのinterviewに対して魂が溶けてしまいそうな程に泣いてしまったんですよ。

そうさ! 私は、そういう病気なのさ!!!(自分で認めておく話の早さを褒めて欲しい)

だから残酷なのかも知れないけどマットよかったねって思っちゃったんですよね。
この先最後まで、うん、きっと最後の場所でマットを待ち受けているものは幸福ではないのだろうけど。
でも、最後まで一緒にいてくれる人が見つかって。
いや、あなたを見つけてくれて良かったねって。
もう、寂しくないねって私は泣いたのです。
赤にはハッピーエンドの兆しがあった。
赤のユジン先生は汚泥の中を掻き分け、その泥の重さに何度膝をついたってきっと、マット・シニアの腕を掴み泥の外へと引っ張り出す事を諦めない人だって思えた。
青のユジン先生は、一緒に汚泥に沈んでしまう人に見えたのだ。
そして、マットの耳に「御覧。 僕たちが沈んでいるのは綺麗なお水だよ」って偽りを吹き込んであげる人に見えたのだ。
いずれにせよ、入水心中。
二人して満足に呼吸は出来まいと思った瞬間に、私は息苦しさを覚えて、大きく咳き込みました。
マスク越しに口を両手で押さえて、肩を大きく震わせて。
これは本当の話です。
青の前楽で、身体を揺らして必死に堪えながら私は喉を震わせて小さな咳を繰り返しました。
私は、劇場で溺れそうになったのです。

私には、丘山さんがどういう風にユジン先生の役を解釈し、どういう感情でマットと接していたのか知る由もありません。
私の病んだ感じ方が正しいかどうかなんて、別に教えて欲しくもない。
丘山さんの繊細で細やかな表現が、序盤の静けさから徐々に情緒を引き摺り出され、目の前の青年に心を奪われ、憐れみ、何をおいても救いたいと願うまでの過程を眺めながら得た私の感想が「そう」であったというだけの事なのです。

マット・シニアという怪物に魅入られた犠牲者。
青のユジン先生に感じている私の印象を一言で言い表すのなら、私はそうとしか言いようがないのです。

さて、文字数が既にヤバヤバなのでサクサクとジョアン・シニアの感想を書かせて下さい。
赤のジョアンの伊波さんはねぇ、圧巻でしたよね!
歌が! うめぇ!!!(天を仰ぎながら)
歌が巧いってさ、歌が巧いんだなぁ…(呆けた顔で)
もう、駒鳥の歌とか「永遠に聴いていたい」ってなる位だったもの。
伊波さんの駒鳥の歌を絶賛した直後に「そういや、あの歌から舞台は始まるけど、みんなすぐに歌がマザーグースに直結した? 私は一回『あ、これクックロビン音頭だ! つまり、マザーグースって事か!』って理解の前にクックロビン音頭を挟んだんだけど、そういう人絶対他にもいるよね? ね?」という世界で一番どうでもいい、私の脳味噌がウレタン製である情報を差し挟みたい位に素晴らしかったもの!(こんなに真実、世界で一番どうでもいい情報も他になかろうよ)
揺ぎ無く歌がうまくて、心を強く掴まれて、歌い出しを聞いた瞬間にその豊かな歌声に「ふあああ(感嘆)」ってなりました。
尽きぬ事のない、際限のない泉のようなたっぷりとした美しい歌声は「私は本日、ミュージカルを聞きに来ました!」っていう実感も与えてくれて、聞き惚れずにはいられなかった。
彼女が自由自在に操る歌声で今がどういう時かが分かるみたいな、状況把握すらさせてくれた。
ミュージカルで歌がうまいという事はこういう事か…って、その意味を知るというか、普段聞いてる曲との違い自体にちゃんと思いを馳せられた気がします。
その位に赤・ジョアンは、本当に歌がうまい!(何度も言う)
で、この巧い歌をベースにして、その上に乗せてくる芝居がまたうめぇのよ(唸る)
ユジン先生とマットの芝居を受けて、舞台をコントロールしていて、手練れだなあと単純にその技術の高さにも感じ入ったのでした。
バランサーとして完璧に機能していて、彼女は出ずっぱりではなくて、要所要所で姿を現す存在だったのだけど、その存在感故に彼女の登場が私にとっては「物語が動く合図」のように感じられてならなかった。
歌も、華やかな外見も、兎に角生命力に満ちてるんですよね、赤・ジョアンって。
故に舞台上に立つ彼女は「生きていた人間」としての印象が強く、青・ジョアンに感じた儚さとか、存在の取り留めのなさのようなものは、赤・ジョアンにはさほど感じませんでした。
ジョアンの挙動・言動って、あくまでマット達のフィルターを通して我々の目に映るものなので虚実入り混じったものである可能性もあるのですが、あまりにも生き生きと、実存性のある芝居と歌声を魅せてくれるので「ああ、確かにジョアンは居たのだ。 マット・シニアにとって眩しく、愛しく、何度手を伸ばしてもすり抜けていく輝き、守るべき存在としてこの世にいたのだ」と実感する事が出来たのです。
聖母のようだったし、狡い姉にも見えたし、弱い女だと感じた。
マットと彼女の関わり方は姉弟と男女との境目が曖昧で滲んで見えて、マットは勘違いするだろうなって凄く実感できた。
マットは「自分たち愛し合えてるんじゃないか。 アナベルリーみたいに姉は自分を愛してくれてるんじゃないか」って勘違いするだろうなって思って、マットの事を益々可哀想に思ってしまって。
マットが勘違いした瞬間が肉体的交わりを持った時かどうかは知らないけれど。
ジョアンがマットを勘違いさせてしまったのは故意かどうかも分からないのだけど。
こんなジョアン相手だからマットが自分達はこの世にはお互いしかいないと思った時間を過ごせたんじゃないだろうか? ジョアンに愛されてるって勘違いしてる間、マットはもしかしたら少しばかりの幸福を得てしまっていたのではないだろうか?って思う程に赤のジョアンは女性として魅力的でこのジョアンは家の外においても、随分と異性の心を奪っていたんだろうなぁって私は思うんです。
端的にいえばモテるだろうな、このジョアンはって思ってて、その女性としての可憐さも、なんだかあの家で生き抜くために身に付けた術ではないだろうか?と考えると、切なくて、怖くて、おぞましくて、辛くなってしまうのでした。
ジョアンがそうやって自身の持ってるもの全てを利用して、手段を講じて自身を守り抜いたんじゃないか?っていう風に見えたのは余りにも赤・ジョアンが人間だったからだと思う。
人間のままに、あの家の中で生きていく事はそれは辛いだろうて。
適応を一切出来てない彼女が、弟を見捨てて、男に縋って家を出ていく切符を手に入れる事を誰が責められるんだろう?って私は考えちゃって。
赤verはね、ずっと「私達が目にしているこの事態はどういう悲劇か」っていうのを、理解させ続けてくるんですよね。
情緒で誤魔化さないんです。
伊波さんの芝居の具象的な巧さも、その理解をずっと促し続けてくれた。
彼女が母親になって登場する時とか、私は彼女が登場する通路脇の席に居たのですが、脚を引きずって、身体を傾がせて現れるんですよ。
その姿を背中で聞いた音だけで目に浮かべる事が出来た。
具体的な芝居を、ずっと心掛けてくれていた。
歌がうまいという事は、声の出し方が巧いという事で、声の出し方が巧いという事は舞台においては殆どイコールで芝居が巧いという事なのだと理解出来ました。
伊波さんのジョアンには、問答無用の実力でぶん殴られた。
そんな心地がするのです。

比べて青のジョアンの、ののりきちゃんはちょっと思い出すだけで頭がおかしくなりそうな位に「居る」のに「居ない」人でした。
居た? 青のジョアンって居たよね? 透けて向こう側が見えてたような気がするんだけど、居た筈なのよ。
だって、ののりきちゃんおのちゃとコラボキャスとかやってたし(最早、コラボキャスで存在を確認しようとしている)コメント欄にもいたもんね?
コメント欄のコメントすら超きゃわわで、私は完全に「君を推す!!!」と強い意志を抱いてしまっているもんね?
そんなののりきちゃんが演じているのに、「ああ、幻なんだな」って舞台上を歩いてる時もすぐにそう感じてしまったくらいに、存在が疑わしい程に綺麗で、怖くて、悲しくて、透明感があって、目を離した瞬間に消えてしまいそうだった。
私の中でE-girlsって可愛くて強くて元気の象徴なんです。
極めてヘルシーな印象と言うか、「私がモテてどうすんだ」でも、その健康的な可愛さを振りまいていたののりきちゃんが、澄みきった透明度の高い歌声を喉を震わせながら奏でる姿を見た時に亡霊にしか見えなくて息を呑んでしまった。
震えるか細い声。
小鳥のような声が空だけを目指して響いていた。
自由自在に歌う事で生命力を感じさせてくれた赤・ジョアンとは全く違う鎖で繋がれているかのような不自由さ。
この世のものでないようなゆらゆらとした眼差しと、事ある毎に見せつけられる確かな筋力と体幹によって生まれる「どういう仕組みになってるの?」と慄くような人間の生理からかけ離れた、人外の動きで見せる虚脱やしなやかな身のこなしによって、益々「人でなし」な印象は強まり、マットを追い詰め傷つけ痛めつけ支配し玩具にする冷酷さを見るにつけ「この子も怪物だ」と私は思い知らされたのでした。

ジョアン・シニアは誰が殺したのか?
マット? 母親? 義理の父親? 彼女に助けの手を差し伸べなかった社会? その社会の一員である私達?
ジョアンのマットへの仕打ちを責められる人はこの世にいないと思います。
彼女の罪は彼女だけの罪ではない(それはマットにも言える事です)
子供が父を亡くし、母親に育児放棄され、弟の命を一手に任せられて、新しい父親からはおぞましい虐待を受ける。
あの家に適応して生きていく為には「怪物」にならざるを得なかったのだろうと私は青のジョアンを見て強く感じた。(interviewの舞台裏密着において演出の田尾下さんが述べてたように、赤の方が冷静で青の方が直情的という言葉に私は大いに頷いていて、ジョアンこそが赤と青がそれぞれ『そう』非ざる得ない』理由ではないかな?って思ってます)
ジョアン・シニアはあの家にいる間中、ずっと人でなしでいなきゃ生きてけなくて、人でなしのまんま結局家から出られずに息絶えた。
赤のジョアンとマットに感じた男女の関係である事に対するおぞましさは、青のジョアンとマットには感じなくて、それはジョアンを人間の少女だと思えないままでいるからかもしれません。
なんだか、ずっとマットが一人ぼっちに見えた、
ジョアンは、マットと抱き合いながら何にも明け渡さずにいたんだろうなって感じた。
いや、明け渡せなかったのかも知れない。
だって、ジョアンは何にも持っていないから。
青のジョアンの事を考えると、いつでも胸が張り裂けそうになる。
いつからジョアンは怪物になってしまったのだろう?
何にも持たずに、家に繋がれ、歪んで、壊れて、エドガー・アラン・ポーの詩集を胸に抱き、空に向かってか細く歌うばかりのジョアン。
赤のマットと、青のマットを比べた時に青のマットの方が少しだけ寂しいのは、彼が全てを懸けて愛したジョアンがずっと空っぽだったからだと思う。
最期、マットに手折られて、魂が抜けた人形みたいに崩れ落ちてマットの腕の中からもすり抜けて、その余りにも虚ろな、なすがままに命を奪われるジョアンの姿は、ずっと昔に真っ白に枯れていた木が漸く倒れる瞬間にも見えて。
あの素晴らしい、ののりきちゃんの身体能力があったからこその美しい…うん、『美しい』という表現を使う事を私は躊躇ったのだけど、それでも息を呑む程に儚く美しい死を得たジョアンの背中を正面から眺める席を得ていたので、私は漸く空へと羽ばたこうとする羽を確かに見た気がしています。
怪物として生きたジョアンは死によってやっと、あの家から、自分を虐げ束縛する家族から、自分を助けてくれなかった社会から、怪物である自分から自由になったのだと感じて、辛くて辛くて堪らなかった。
ユジン先生に抱き抱えられて美しいシルエットを壁に残して消えたジョアン。
赤のジョアンは、もしマットに殺されずに家から逃げ出せていたら私、幸せになったんじゃないだろうか?って思うんです。
残してきた弟への罪悪感を抱えたまま、それでも彼女は日常を手に入れ、人生を謳歌した気がする。
全体の感想においても書きましたが、青のジョアンは無理でしょうね。
あの子は、美しい湖畔の片隅にある小さな家の中でしか生きられないように設えられて見えた。
とても、他の場所では生きられないようにしか見えなかった。
マットに首を締め上げられて、浮き上がるみたいに身体が釣り上げられて、私はその姿に恐ろしいことにカタルシスを覚えてしまったので。
彼女の物語の正しい終わりをマットがもたらしてる光景にカタルシスを覚えてしまったので、私にとって青のジョアンとは息絶える事でしか悲劇から逃れられない存在なのだと思うと、本当に辛くて仕方がないのです。
赤のジョアンに感じた自由を手に入れる直前で事切れた彼女の死を痛ましく思う気持ちと、青のジョアンに感じた死ぬ事でしか得られない自由を目の当たりにした辛い気持ち。
同じ演目でありながら演者が違うが故の私が覚えた悲しみの性質の差に、今も慄いているのです。

目標は二万字以内に収める事なので、もうね! すぐに次の方の感想を書き出しますよって事で、マット・シニア達を演じた糸川さん。
2.5次元系の俳優さんである事も後から知った位の知識のなさなのですが、素晴らしいミュージカルアクターだ!って拍手喝采がやまない位に軽やかに、明確に演じて下さった。
役柄自体はとてもしんどいんです。
それは、もう舞台を観た人は全員御存じの通り、マット達は全員しんどい。
そんなしんどくって出ずっぱりのお芝居を、どうしてあんな風に最初から最後まで一切の息切れなく、演じ切って仕舞えるんだろう?
軽妙で、愛嬌があると思うと、幼くなって、可哀想で、悲惨で、必死で、どんどんくるくる変わって、歌声が軽やかで。
とにかく「わ! 軽い!」って凄く思ったのでした。
私の乏しいミュージカル観劇経験において、「巧い」と称されているアクターの歌声の印象は共通して「軽やか」である事が必須なんだなって思ってて(全然違ったらごめんなさい。 軽やかっていうのは歌声の重量がただ「軽い」という意味ではなく、声域の広さ故に歌声に際限が見えず何処までも高みに登って行けそうに聞こえるという身の軽さを指しています)「この人ミュージカルの人だ!」みたいな、いや、それは伊波さんにも感じたのですが「ミュージカルの人だー!」っていう、そういう単純な感動も覚えました。
凄い難役の筈なのに、難役と感じさせない程に身のこなしも口舌も滑らかで、段取りも自然にこなしていって、本当に観客としても気負いなく観られるというか、徐々に明らかになっていく凄惨な秘密を、マットの情緒の変化と共にこちらの理解を促されてくような丁寧で、正しく伝えるという事に誠実な芝居をしていらっしゃるようにも見えたのです。
だから、やっぱ余裕なんですよね。
今回の感想って、つまりミュージカルの場数踏んで来た人のアドバンテージについてもずっと念頭に置いた感想になっちゃってるんですけど、歌う事に余裕があるから観客からどう見えるかという段階にまで気遣いが行き届いた振る舞いが出来ている。
囲み舞台において、四方から飛んでくる眼差しを捌き、受け止め、どう観られるかまで考えられた振る舞いをしているようにも見えて、ああ、綺麗だなって。
この人仕草が全部綺麗だなって感じ入ってもおりました。
とめどなく変遷するキャラクターに合わせた無理のない、自然な振る舞いを常にしていて、なんてこなれた芝居を、こんな難役で見せてくれるんだろう!って私は感嘆が止まないし、伊波さんと糸川さんの支えがあったからこそ、私はマツさんのユジン先生に対し手放しに好感を抱けているのだと思ってます。
赤チームは、マットとジョアンが歌声でユジン先生を支え、ユジン先生はマツさんという表現者にしか出来ないやり方で赤の空気を作り上げていた。
三人が三人共それぞれが為すべき仕事をしていて、私は舞台上における自身の責任を果たし、領分を守る役者の姿を観る事が大好きなので、赤チームのチームワークやお互いに補い合うような舞台作りを素晴らしいなって感じていますし、その中においても糸川さんの変幻自在のマット達には「次の『人間』を、糸川さんはどう演じてくるんだろう?」と期待に前のめりになるような(実際にはしてませんよ?)心地にさせて貰いました。
ジミーの信用ならない詐欺師っぽさに、ウッディのあざといまでのあどけなさ、アンのお姉さんぶった可愛らしさと、ノーネームの虚無感。
マットの中に内在している人格全てが「人間」として並列に存在してるという事に説得力を持たせる、それぞれの人格が拮抗して「全くの別人」として表出している切り替えの早さは見事で、糸川さんのマット達には常に「早い」という事にまつわる巧さが特筆して素晴らしかったような気がしています。
全くの別人みたいに、画が切り替わっていく。
糸川さんという演者の引き出しの多さに舌を巻くと共に、こういう人が立つ2.5次元のお芝居というのは改めて、研鑽を積み、高い技術を持った人でないといけない舞台なんだろうなっていう気持ちを抱いてしまいました。
ジョアンとの関係性とか、本当に絶妙だったもの。
あの二人は、どうあっても悲惨でしかない二人なんだけど、赤の場合はマットに「通じ合ったと勘違いした瞬間があった」からこそ惨たらしく見えたんだろうな。
マットは王子様みたいにジョアンを守ろうとして盾になって、どれだけ彼女を守っても、その両腕からジョアンはすり抜けて、抱きしめる事は一度だってなかった。
赤のマットは青のマットよりもポジティブな人柄に見えて、それはジョアンに上手に心を麻痺させて貰ってるからで、愛するジョアンを守るという使命感が彼を支え続けてたんだろうと思う。
義理の父親に自分を差し出すジョアンの言動を理解しないようにしてるみたいにジョアンの願いを聞いてるマットの姿は、健気で愚かで目をぎゅっと閉じて、見たくないものを見ないようにしてる頑是なさも感じられて。
赤・マットは女神のようにジョアンの事を盲信してただろうなとも思うのでした。
ユジン先生は、こんなマットを救えるんでしょうかね?
これは赤・青共通のマット・シニアに対する私の感情なのですが、私の倫理において「五人の罪なき女性の命を奪った」という罪自体は取り返しのつかないものだと思ってはいるのです。

私が、その殺された女性のうちの一人の家族だったら?
友人だったら?
恋人だったら?

ユジン先生は世論を耐え難いものだと評していましたが「耐え難い世論」に僅かでも心を慰撫される被害者遺族や関係者の感情があるとも思うのです。
私が、被害者関係者であったなら。
私が被害者本人であったなら。
極刑を望むと思います。
救われていい筈なんてない。
罪もない女性たちが、酷いやり方で命を奪われる。
理由は何であれ許される筈がないのですが「自身の罪を忘れない為」だなんて理由は極めて自己中心的で許し難い。
それは、マット・シニアの生い立ちをもってしても贖いようのない罪だと思う。
その罪の責任の全てをマット・シニアに求める事は出来ません。
分かってる。 理屈です。 彼に人間の輪郭を取り戻させ、贖罪の機会を与えるべきというのが、正しい結論なのかもしれない。
この演目で示されていた、帰結すべき正義はそこにしかないのかも知れない。
それでも、私という人間は彼が奪った命の数を思うと不意に口をついて出るのです。

「生まれてこなければ良かったのに」と。

ジョアンが赤子のマットに述べた台詞を私も脳裏に浮かべてしまった。
私は最悪の結論を得てしまった。
マットは悪くないって思いながら、彼を怪物に至らしめたこの世が悪いと分かっていながら、生まれた瞬間から絶望しかなくて、レールの上から逸れる事は許されなくて、連続殺人鬼となる運命から逃れる道筋なんて一つもなかったマットの事を思うと、辛いばかりで。
そういう怪物になるしかなかった生き物であるという前提の上で、私は生まれてこなければ良かったのにと思うのです。
マットはどうなんでしょうね?
生まれてきてよかったって思った事はあるのでしょうか?と考える事自体が醜悪で傲慢なのかもしれない。
ユジン先生はマットに「生まれてきてよかった」って思える瞬間をあげられるのでしょうか?
赤のマットとユジン先生なら、なんとかなるような気もするのです。
「生まれてきてよかった」と実感する事がマットの手によってもう出来なくなってしまった人々の事を思うと、そう実感させる事の「罪」についても考えてしまうんですけどね?
でも、赤のユジン先生なら私のこの最悪の結論すら「そんな事はないんだ。 生まれてこなければ良かった命なんてないんだ」って翻させてくれるかもしれない。
赤には、そういう希望が微かに感じられた。
糸川さんのマットは、「こういう生い立ちでなければ、この聡明な若者は素晴らしい人生を謳歌出来たのであろう」と想像を巡らせてしまう程に、人柄に魅力を感じさせてくれて、だからこそ彼を通して、マットとジョアンが見舞われていたような苦境が今社会において現実に存在してる事を認識し、私自身の出来る範囲ででも、その改善に取り組んでいかねばならないと社会を構成する一員としての自覚を強く促されました。
interviewという舞台の意義を正しく受け止めさせてくれた糸川さんのマットに、私は感謝の念を抱いています。

そして、最後にどうしていいか分からん位に狂わされたおのちゃのマットの感想を書かせて下さい。
既に一万三千字に到達しており全体感想と分けた記事にした意味は?と考えだすと、私、今までもブログ書き上げた後リツイート先とかで「長い。 読めない」とか言われたりしてて「どげんかせんといかん!」と決意して以降、私なりにブログ短文化に励んで来たのですが今回は無理!
もう、頼むよ。 好きなように書かせてくれ。 読める人だけ読んでくれたらいいからさ。
と、前置いておいて、ただひたすらに「凄いものを観たね、私達」と呻き声しか漏れない私の有様をお伝えいたします。
私、多分観劇が趣味ですと胸を張れる程には本数は観てないけど、舞台の事は分かりません!という人よりは観てるという中途半端な舞台観劇歴持ちの人間なので、目安にはならないでしょうが、本当に「この役者、とんでもないぞ」って震え上がったのです。
陳腐な言い方を許して欲しいのですけどおのちゃの「才能」に私は足から膝の辺りまでずっと、痺れるみたいに震えていたのです。

観劇中、終盤に至るにつれて、どうしてこんなにって舞台を観ながら祈ってしまっていて。
祈りながら舞台を観るなんて初めてだったから、自分の感情の正体を掴めないままにいて。
どうして、こんなにってそこまで考えて、観劇中に言葉の続きが見つからなくて、観劇後に相互フォロワーさんと溢れるみたいに感想を交わし合ってる時にふと「おのちゃが綺麗すぎて泣いてしまった」って伝えたのだけど、私は多分ずっと「どうしてこんなに綺麗なんだろう」って祈ってたんだと知ったんです。
恐ろしくて、悲しくて、惨たらしいばかりの役なのに、おのちゃのマットはバチン!って弾けるみたいに、火花をずっと散らしてるみたいに綺麗だった。
どこに隠してたんだ、そんな眩しいものをって私は度肝を抜かれてしまって。
こんなに稲妻みたいにチカチカ凶暴に光る輝きを隠し持っていた役者だったのかって目どころか心まで潰された。
おのちゃについては勇鐘感想ブログやjamの感想ブログでも書いてる通り、純粋に演技力は劇団内でもトップだと私は思ってはいたのです。
それは、そうです。
とにかく天性のものなのか、勘がいいし、技術が高くて、間がの取り方が巧く、度胸がある。
相手に合わせて相手の良い所を引き出す芝居という、やろうと思って出来るもんじゃなかろう芝居をやってのけ、観察力が素晴らしいからこその役の解釈の的確さを私は絶賛して、絶賛して、おのちゃが他者と足並みを揃える余裕なんてなくなるような超絶巧い脚本の超絶難役に挑んだら、私はどんだけ打ちのめして貰えるんだろう?とか想像した先にあったのが、このinterviewですよ。

もうね、おのちゃは雑な作品には出ないでくれ。
あなたの才能を尊重し、あなたを大事に取り扱ってくれる人と一緒に仕事をしてくれ。
そういう類の…おのちゃは皆から大事にされるべき、そういう類の宝物みたいな役者だ。
あと、劇団EXILEの面々はみんなおのちゃを尊重し、一目置き、心から讃えてくれ!とか願ってたら観劇した劇団員は軒並みおのちゃを褒めそやしていたので、私はそこら辺は結構満足しています。
あとは、おの町コンビの屈折具合が大好きなので、おのちゃの芝居をゲルマニウムかな?って位に屈折率の高い褒め方をしたり、この先のお町田さんからおのちゃへの接し方がいよいよおかしな具合を見せては欲しいかな?(私、すぐ欲望を口にする~!)
おのちゃが何気なく手にして、気負いなく見せてくれるユーモアだったり、コミュニケーション能力の高さだったり、他人との距離感の縮め方の巧さとか、歌唱力の高さ、どんな役にも対応出来るからこそおのちゃに舞い込む仕事の多様性や、それこそinterviewの役柄等々を「後輩相手に!」と自身を律しつつも、ちゃんと羨んでるお町田さんの気配が私は欲しいんだろなぁ!
その上で、おのちゃが自分にだけ面倒臭い接し方をしてくるお町田さんにひたすら困り果ててる姿が大好物なので是非くれ!!!(両手を突き出しながら)
秋真さんがおのちゃを例によって手放しで褒め倒し、おのちゃが素直に喜べずにぶすくれてるの図をじとーっと眺めてるお町田さんの姿をくれ!!!!(おのちゃの感想を通り越して、推しへの歪な欲望吐き出す事を止められなくなってる)

その位に凄すぎて、私はinterview以降ずううううっとおのちゃが演じたマット達の事だけを考えて過ごしてしまっているのです。

おのちゃのを生で観劇したのは勇鐘だけで、その際は役柄をきちっと全うする「職人だな」「プロってこういう事だな」「つうか、巧いよなぁ」ってそうやって唸って「高い期待に応える、思った通りのおのちゃだ!」って満足させてくれる、そういう印象だったのに。
言うたら、私の好きな華があるというよりは、地味だけど確かな実力があります!っていうそういう役者だと思ってたのに。
そのおのちゃが、他人のフォローなんて事まで頭が回らないであろう程に全力を注がねばならない役を演じた時にこんなにも、観客の全部を奪う凶暴な役者になるなんて思ってもみなかった。
全方位に向かって敵なしじゃん。
どんな作品にも対応し、どんな役柄でも出来るって事じゃん。
しかも、おのちゃはまだ若くって、これからどんどん経験積めば積む程巧くなっていくわけで。
そんなん、最強の役者じゃん。
最強の役者を擁する劇団EXILEをよろしくお願いしますじゃん(二万字近く感想を書き続けた果てに、いよいよ正気の失い具合が末期に達してきている)

何しろ、おのちゃのマットはずっと痛々しかった。
そして、「同じ痛み」を等分にマットに住み着く他の人間達も負ってるように見えた。
入れ替わっても、ユジン先生の追求から別の人間に逃げても、全員生々しい傷に喘ぎながら、息も絶え絶えに助けを求めていた。
だから、赤は「別の人間達」という印象が強かったのに、青にはあくまで「同じ人間が枝分かれしていってる」という印象を受けました。
それは、おのちゃが「苛立ってる」キャラを演じたら右に出る者はいない芝居をする人だからだろうとも思うのです。
全員が全員苛立っていた。
マットも、ジミーも、ウッディもアンも、ノーネームも。
おのちゃがハリネズミみたいに毛を逆立てて、人を寄せ付けない表情を浮かべるのを映像では何度も見て来た。
得意だからそういう役柄が多いのか、そういう役柄が多いから「苛立ち」の表現が研ぎ澄まされていっているのか?
青・マットは苛立ちを抱え、歯ぎしりをしながら、ユジン先生に相対し、歯を剥き出しにして「僕を助けて」と叫んでいた。
衝動のように何度も「この子を助けたい」って私は思ったし、ユジン先生がマット達に覚えた感情の根幹にもやはり衝動があったような気がします。

なんでだろうな。
でも、青Verは全部手遅れに見えて。
だって、青のジミーが机の上に立って夜景について語る時、天井に輝く星達が全部彼に落ちて来そうに見えた。
そんな事ある筈ないのに。
でも、そういう光景が似合う男だってつくづく思った。
もう、この男の身に起こった事の全ては全部取り返しがつかないんだろうなって、あの時感じた。
だって、星空が落ちて来そうに見えるんですよ? そんな人もう、誰にも救えないって事ですよ。
あと、おのちゃチンピラ役歴もね! 長いから! ジミーが絶妙にガラが悪いんですよね~! 
あの「かったりぃな~!」みたいな知性のない粗暴な仕草とユジン先生への絡み方に「十八番だー! これ、おのちゃの十八番のやつだー!」って嬉しくなったし、ガラの悪いチンピラ感に「よ! 待ってました!」って大向こうをかけたくなる私ってどうなの?とも分かってはいます。

そこからのウッディがもう私、青柳さん御出演のMM観劇後に青柳さん最推し勢に述べた感想をここで満を持して書きますけど、おのちゃ最推し勢の皆さんはウッディのおのちゃ観てなんで生きて劇場を出られたの?(無垢な眼差しを向けつつ)
無理じゃない?
生きて劇場から出るの無理じゃない?
クラブeXの床にゴロゴロ死体が転がってて然るべきじゃない?
ウッディだよ? おのちゃが…ウッディだよ?(言い聞かせる声で)
寒さに肩を窄め、お姉ちゃんに優しくされてにっこり笑い、手遊びをして、お姉ちゃんに縋ってべそべそして、お絵描きをして、ぐずった声でユジン先生に駄々をこねる…そういう推しが全力でショタってるウッディだよ?

生きて 劇場から出るの 無理じゃない?(無垢な眼差しを向けつつ)

もう、私「これコロコロの時期じゃなかったら、多分クラブeXなんか連日満席だろうし、この世にチケットある?案件になってたろうし、そんな観客数にこのウッディを見せたら、完全に大量虐殺になる。 おのちゃが虐殺器官になってしまう(伊藤計画が好きなんです)コロコロ時期でよかったね!ってそんな訳あるかーーーい!!! こんなおのちゃ、観たい人が全員観れた方がいいに決まってるやろ! シアターオーブ規模の劇場でも満席! 通路も立ち見で一杯!位の人数に観て欲しかったやろ!」と自問自答がやまない程の威力から畳みかけるようにアン!

アンくる?! アン、続けざまに来るの?! 死体蹴りじゃない? 見て? だって、もうおのちゃ推しの人みんな死んでるよ?!とか恐慌をきたす程に仕草から、声の音程から完璧に女の子な、可愛くて分別のあるアンが登場するわけで。
あすこのシーンは、私は押し殺した断末魔の悲鳴がやまなかった。
アンがジョアンから逃げ回り、先生の後ろに隠れたり(可愛いが過ぎんか?)机の下に隠れて彼女を拒絶し続けるシーンは詳しくは説明しないけど、私の性癖に刺さり過ぎて(つくづく私の性癖歪んでるなって思い知るばかりですね!)(他人事のように)口の中に溜まる涎が凄かった。
おのちゃ推しの人に詳しく解説して欲しいんですけど、おのちゃってどうしてあんなに他者の執着から逃げ回って、怖がって、震えてる姿が似合うんですか?
おのちゃの業ですか? 高い演技力故ですか? それとも、そういう風におのちゃを見る私こそ、己の業を反省すべきなんですか????

で、このアンからのノーネームがきて、マットに把握されないままに全ての人格を統べる彼のマットへの献身と、静かで虚無感に満ちたその佇まいを露わにすると、exシアターという距離の近さ故に思い知らされるおのちゃの造形の綺麗さに眩暈を覚えたし、空っぽのジョアンに己の全てを注ぎ続けた果てにノーネームが誕生したように思えて、私は自分の呼吸音すら憎悪しながらノーネームとユジン先生の対話に耳を凝らした。
フラッシュの中、各人間達が目まぐるしく入れ替わるシーンなんて、その時はただ魅入られて、私は息を呑んでおのちゃの身体が四方八方に歪むみたいに私の目には映っていて、その中から次々に現れる人々に呑まれていたのだけど、今思い出すと誇らしさを堪え切れない程の凄みのある演じ方をしていて。
あの光の閃光の中で、それでも些細な身動きと声色一つで、全員を次々と演じ分けていた。
あすこは、言うまでもなく役者の腕の見せ所で、その見せ所を想像以上の実力でキメてこられると「参りました」と唸るしかなくて、interview観劇中ずっとおのちゃに白旗振ってたけど、あすこで私は五体投地という完全降伏の体に至ってしまった。

あとはもう、抗う気持ちの一片もないままに、白眉と表現する他ない囲み舞台の真ん中で煙草を棄てて家に火を放つまでの耳が痛くなる程の無音の一時。
凄すぎて歯の音が合わなくなりそうな私にトドメを刺すように、高らかに絶望を歌い、炎の中に立つマットの姿に、全身がぶわああっと逆立つのを感じつつ、私は歯を強く噛み合わせてふーふーと歯の隙間から細く息を零しつつ、思考が摩耗しきって目から水を零し続ける以外が出来なくなりました。
泣く以外の何も私には許されてないと思い知りました。

天才の定義なんか知らん。
贔屓目だよって言われてもうるせぇって私は怒鳴る。
おのちゃは天才だ。
あの一連の芝居を観て、私はそう確信したから、もうそれでいいのです。

ジョアンという化け物を殺して、化け物になったマット。
綺麗で綺麗でバチバチってまた火花が散る幻聴をおのちゃの睥睨する眼差しに聴きながら、ユジン先生無理だよって何度も思った。
こんな風に化け物になってしまった人は救えないよ。
その証拠に、もうこんなに美しいのだもの。
幻の炎の熱さが私の皮膚を炙っていた。
感情より先に、全部私の身体が「凄い芝居を私は目の当たりにしてる」って教えてくれていた。

ラスト、マットはジョアンの制止によって自死を断念します。
私は前述の通り、連続殺人を起こしてしまったマットに対して「生まれてこなければよかったのにね」って思ってしまっています。
でも、同時にジョアンが自死を止めた光景をもって「それでも生まれた以上は死を許されるまで生きてかなきゃいけないんだろうな」って希望とも諦めともつかない気持ちを抱くのです。
多分、そういう「罰」もあるのです。
赤のマットは、ユジン先生の不屈の精神で施される治療によって救われる希望を私は想像出来るのに、青には少しもそんな印象を抱けていなくって。
青のマットは、ぼんやりと「いつかユジン先生に殺されるから、ジョアンはまだマットを死なせてあげないのかな」って思ってます。
ジョアンがそうであったように「怪物」になってしまったマットの自由は、死によってしか手に入らないような気がして。
いつか、私と同じ結論に達してしまったユジン先生が自分がされたみたいにベルトでマットの首を締め上げる、そういう未来が来るんじゃないだろうか?
その時こそが、マットが漸く救われる時になるんじゃないのだろうか?って考えて、私はユジン先生は優しいから、マットを殺してあげる結末はありえるよなぁって心底思ってしまうのです。

これで、私のinterviewに対する感想は正真正銘おしまいです。
文字数を減らす為に推敲したはずなのに、役者感想だけで一万九千字越え。
全体感想と合算すると、二万五千字もの言葉をinterviewに費やさせて頂きました。
長いよ! 書いてる私の、うんざり顔凄いし、読んでる人のうんざり顔も目に浮かんでいるよ!

それでも、私にとってはこれだけ言葉のいる舞台だったのだとお目こぼし頂いて、ここまで読んで下さった方に心から感謝したいと思います。

interview、これからどんどん再演して欲しいなぁ!
おのちゃのマット、また観たいなぁ!
再演時には、劇団EXILEメンバーはマストで出演して欲しいなぁ!と最後につらつらと強欲な事を書き連ねつつ、それではこの辺で。

他人事でした。

 

interview感想 全体編

「ゲボ出そう」というのが、率直なinterview開幕直後の評判を聞いた私の心境でした。
あとね「観劇中に臓物が口から全部出たとして、上演を止めずにやり過ごす方法ってあるのだろうか?」って本気で考えたりもした。
何しろ、前評判の時点で「致命傷」と称したくなる程におのちゃが好評なうえ、劇団内No.1「積んでる芝居用のエンジンが、一番馬力のある男」とおのちゃを目していた私にとって「どうも、全力でそのエンジンぶん回してるっぽい」事が伝わってくる現実に、私は日常生活に弊害が出る程に混乱を齎されていたのでした。

1回だけ。
千秋楽だけ観劇しよう。

日帰りで、観劇したら長居せずにすぐに品川から帰ろう。
それくらいなら、大丈夫。
私の大好きな原美術館はもうないし、私は劇場と駅を往復するだけで今回のお江戸行きを終えよう。
そう誓ってチケットを押さえた筈なのに、気付いたら私は前楽のチケットを手に入れてたし、宿も取ってたし、大阪に観に行くくせに、推し劇団の東京公演チケットまで手に入れていて、私は赤公演の当日券まで抽選権を握りしめて劇場に飛び込んでいた。

もうね、「怖い!」以外書けなくなるよね!

満喫してるんだもの! 知らんうちに、お江戸を!
いや、しっかりしろ! 知らんわけあるか! 手配したんは私やぞ?!(自分で自分を殴打)
それもこれも、全部おのちゃのせいだ!と理不尽を自覚せずに喚ける程度には、事前の評判に狂わされましたし、私に狂うような評判をお伝えし続けて下さったTL上の皆様には感謝の念しか抱けていませんし、私は品川クラブeXにまだ魂を置いていると断言だって出来ちゃいます。

劇団EXILEの沼に沈んだ時に、まさかそのお蔭でこんな「とんでなく素晴らしい芝居で、とんでもなく素晴らしい役者の、とんでもなく魂を振り絞った芝居を観て、心をズタズタにされる」幸福が待ち受けてるなんて、想像すらしていなかった。
世界が狭い私は、私の世界が最高だと思っていて、その世界の外にも最高があるって言う事を分かってはいるけど、理解ってはいない。
おのちゃは、今回「どうだ。 最高だろ?」って私の目の前に掛かっていた幕を開けてくれた。
目が潰れそうな位に強烈なものを私にくれた。

interviewの感想を書きます。
今回は、赤・青公演全体の比較感想文になります。
長くなり過ぎちゃったから、各役者の感想は明日更新予定。
あらすじは省きます。 解釈はないです。 解説も出来ないです。 私、ミュージカルはそんなに沢山観た事なくて、私のツイッターや、ブログを御存じの方なら頷いてくれるだろうけど、ほんとに頭が悪いから。
だから、ここから先は感想だけです。
どうぞよろしくお願いします。

私は、あくまで私個人としては赤の方がグロテスクで幼児虐待のおぞましさという社会的に取り組むべき問題への怒りが際立って感じられたし、青の方がキャラクター個人の痛みと悲劇性に瞠目させられました。
ミュージカル初挑戦はLDH勢が三名。
その内訳は、赤のユジン・キム役にマツさん。
青のマット役におのちゃと、ジョアン役にののりきちゃん。
この内訳こそが、前述の私が抱いた印象の正体ではないだろうか?と私は考えていて、つまり「ミュージカル慣れ」してない三人の在り方、歌い方が、赤・青各色のinterviewの印象を決定づけたような気がしてならないのです。
赤は、始終ユジン・キム先生がマット・シニアの中の複数の人間達に振り回される印象が強く残っています。
それは、マツさんが歌唱に割くリソースの割合が多く、必死に絞り出すように歌い上げる姿が「マット・シニア」という怪物を前にして届かぬ手を伸ばし、彼に潜む複数の人格と対決し、何とか彼を救おうと足掻く姿に重なって此岸の存在であるユジン・キムVSマットの中に住む彼岸の住人達の印象が強まったからかもしれません。
つまり我々が心寄り沿わせる対象が(共感ではないと思う。 私が共感という言葉に眉唾という印象を抱いてるせいかもしれないけど)ユジン・キム先生側に立ち易い状況になった事で、マット・シニアの底知れなさ、怪物性はより高まったように思えてならないのです。
加えて、2.5次元系の舞台等でミュージカル経験豊富な糸川さんが高い歌唱力で、余裕を感じさせながら軽やかに歌い上げ、マツさんの歌声を捕まえ、引っ張り上げるようにデュエットする舞台上での姿を見るにつけ、自身の常識や倫理から大いに逸脱した恐ろしい真実を内包しているマットの存在感は自身の肉体以上に膨れ上がって見えました。
精神のみならず肉体的にも彼岸にいるジョアンについても言うに及ばず。
歌を歌うという事を、まるで呼吸をするの同然かの如く高らかに、劇場中に波及させるように歌い、歌と芝居を混然一体化させていた伊波ジョアン。
赤は、マットとジョアンの盤石の歌声が思う存分に、キム・ユジン先生を惑わせ、煽り、追いつめ、醜悪な真実を眼前に呈して見せた。
だから、赤の印象はグロテスク。
怪物にならざるを得なかった子供の姿を通して世界の醜さを目の当たりにさせられた。
そのグロテスクな世界を作り上げたのは、マットやジョアンのような子供達を助けられなかった社会であり、その社会を構成する社会的存在。
つまり大人である我々なのだと強く自覚を促されるようなそんな心地がしたのです。
青では泣きじゃくった私は赤では、一粒も涙を零さなかった。
これは決して赤にエモーショナルな感情を覚えなかったからという訳ではなくて、泣く立場にないと思わされた事が大きいです。
マット・シニアが生まれた世界に、ユジン・キムが覚えたであろう怒りと自責の念に似た物を私が抱き、この世に生み出してはならないというメッセージ性に打ちのめされたからなのです。

逆に、青においてはミュージカルの場数を多数踏んできてるのはユジン・キム役の丘山さんで、初挑戦はおのちゃとののりきちゃん。
ユジン・キム先生の歌声には危なげの欠片もなく、歌う事と並行して様々な段取りを行う姿も堂に入ったもので、その振る舞いの余裕綽々といった品の良さや、如何にもインテリ然とした佇まいを維持したまま、マットを追求してく姿は安心感を覚えずにはいられませんでした。
ただ、同時にその歌う事への余裕が丘山さんの解釈を存分に発揮させる事が出来たのか、彼をマットに対し『研究対象』としての興味を抱いているかのような怜悧さも感じさせ、それが後半になるにつれてマットの必死の狂気に取り込まれていくような姿に、佇まいの繊細さもあってか『境界線に立つ人』の印象もあって、青の悲劇的な印象をより強めてくれました。
あとさ、ののりきちゃんのジョアンも、歌う事自体に気持ちを割く割合が多かったように見えたのですが、その余裕のなさが「鳥籠の中」にいる閉塞感をとてもこちらに伝えてくれて、小さなおうちから何処にも行けない少女という印象をとても強く抱けたんだよな。
細く、時々途切れそうになる、自信のなさげな歌声。
鈴の音のような、綺麗な綺麗な歌声は広い世界に響き渡るような力強さは一つもなくて。
こんな子が、例え男を乗り物にしようとも、外の世界で生きてける筈ないなんて思わせるほどに無力な少女感があった。
つまり、赤と青では追い詰められる側が違って見えたのです。
そして、この組み合わせにおいて、白眉と言うか、推し贔屓とか言わせねぇぞ?という強い決意を込めて、私の中で「これ、どういう事?!」ってなったのは当然おのちゃで、つまりミュージカル慣れは勿論してる訳ないんですけど(初挑戦だしね!)、歌の安定感が凄すぎて歌詞の聞き取り易さ含めて異常だし、でも本人が全力で演じないと演じこなせない難役だけあって余裕ぶっこいて芝居してますって訳じゃないのに、生来の芝居勘の良さと技術の高さが作用して、『観客の感心と感動のどちらをも掻き立てる』芝居を見せられてしまったという事を私は有識者の皆さんに強く訴えたいのですよ!!!!(クソデカ声)
演目と、ミュージカル初挑戦と言う状況と、おのちゃという役者の能力の高さ。
そんな複数の条件が重なっての秋真さん曰くの「ベストアクト」になっていたかと思うと、私は生で見られた事を演劇の神様に感謝してしまうのですが、そんなおのちゃが、2.5次元系で鳴らしてきた(私は、2.5次元系舞台を拝見した事がないのですが、兎に角段取りが多くて、求められる能力が高いであろう事は、予想がついております)丘山さんとの掛け合いを経て魂を振り絞り、お互いの能力を出し切りあった結果、青における姉弟の悲劇性、マット・シニアもしくは彼の身体に住む複数の人間達が「生まれてしまった事」への絶望感をひしひしと感じられて、赤を観劇時に感じたマット・シニアへの感情とは全く別種の、胸を衝くような憐憫と愛おしさを覚えてしまったのです。
以上を踏まえた上で、結局私が述べたい事っていうのはinterviewにおける出演役者の余裕度合が及ぼす、芝居への影響についてだったりします。
今回の演目が芝居ではなくミュージカルであるという事。
歌うという行為を役者の演技に噛ませる事で、露わになる経験の差。
すなわち、余裕度の差。
私が今回一番興味を抱いたのはミュージカルの場数を踏んで来た役者と、初めてミュージカルに挑戦する役者との間に明確にある余裕度の違いでした。
その余裕度の違いが、彼らのキャラクター性に大いに影響を及ぼしている事は間違いがなくて、『役作り』という言葉に代表される役者主導の恣意的なキャラクター解釈以上に『歌う』からこそ『そう在らざるを得なかった』という「役者本人の経験上、思い通りに演じる事が及ばぬ領域」を観る事が出来た。
経験不足だからこその『こう在らねばならなくなった』キャラクター感というのが浮かび上がって見えた事が、私は興味深く思えて仕方がなかったのです。
声域の広さ、声量、台詞を歌に乗せる際の聞き取り易さ。
歌うという事に集中せねば歌いこなせない役者と、歌以外の部分に気を回せる役者。

これ、良し悪しじゃなくて。
あの、良し悪しと感じてた観客を否定するつもりは毛頭ないのですが、interviewにおいては私にとっては良し悪しでは全くなくて、多分その「余裕のなさ」こそが、この舞台の肝なんだろうなって思ってるって話なんです。
私、平田オリザ氏のワークショップを受けた事がありまして。
そのワークショップで、参加者同士でキャッチボールをしながら台詞を言うというレクリエーションがあったのです。
平田氏曰く「別のところに神経使ってる方が、芝居がよくなる」という事らしく、青年団においては「恣意的でない芝居」を目指してるからこそのレクリエーションのような印象を受けたのですが、「歌う事に神経を使う役者達」の自身ですら思いも寄らない揺れ方をする芝居を「歌いながら芝居をする事に慣れた役者達」が上手に導き、お互いに高め合う過程を経ている芝居が見せる到達点の素晴らしさと『初挑戦』だからこそ観られる儚さに私は「何事もバランスである」という実感と共に「この時、この場所にしかない芝居」と確信出来る舞台を観られた僥倖を噛みしめたのでした。
三人しか出演者のいない、彼らの歌とやりとりが全ての舞台においては「出演者の印象」と「舞台の印象」が≒で結ばれます。
演出の差、照明の色の差、小道具の差等、赤・青に付与された違いは役者の芝居を補強する為の物であり、あくまでそれぞれの役者に依存した道具立てに過ぎない。

「役者が違うと別物になる」という事の凄み。
役者に全てを委ねた舞台を観るという事の贅沢。
そして、その舞台に箱で押してる劇団所属の役者が出演している事と、私が今まで触れてこなかったジャンルの役者様方の実力を思い知らされた事、加えて推しの芝居が天才の境地にあった事。

その全てを踏まえて最高ですとしか言いようがないですし、赤・青どちらも観られてよかったって心から思ってます。
まぁ、役者の芝居を補強するにすぎないと述べた口で申し上げると疑いの目を向けられそうなのですが、脚本の素晴らしさは元より、演出が鬼のように凄かったぞ!っていうのは、やっぱり言い添えておきたいですよね。
田尾下さんが「それぞれのバージョンがどういう特色になるかは役者に全てを委ねる」レベルにまで持っていく手腕の持ち主だからこそ成立してる訳ですし、少ない人数なのに一切の停滞がなく激流のようなスピードで密度の濃い芝居の連続を見るに「これ、相当体力のある演出家じゃないと無理なやつー!」と心の中で悲鳴をあげました。
セットの配置や見せ方も囲み舞台ならではの目配せが効いていて、どの位置から観ても楽しく、また見る場所によってがらりと印象が変わる様に作り上げられていて唸りましたし、照明の美しさ…とくに点在する光を夜景に見立るところや、色合いを変えていく事で情景を表現する巧みさも素敵だった。
何より、楽曲が全部素晴らしくて、もう帰りの新幹線に揺られながら「音源…せめて音源を売ってくれ…」と呻き続ける妖怪・音源売ってくれババアになってしまった事は一生忘れないと思いますって言うか、今でも妖怪音源売ってくれババアのまんまだからな?!
青柳さんの若者のすべてと同じく、ずっと「売ってくれ」って言い続けてやるからな?!

青に感動し、赤は別物であるという前評判を確認する為に両方を観た。
そんな事が出来る舞台に触れられた。
interviewに感じている私の最高の正体は極めて単純です。
最高のミュージカルを観られた。
感染病が蔓延する時代において、私の最高はもしかしたら非難されるべき最高なのかもしれない。
それでも観劇を趣味としている人間として、劇場で得難い経験をさせて貰えた事を何もかも忘れて寿ぎたいのです。

ということで、まだまだ色々書きたいのだけど、これ前哨戦だぞ?という程に次回更新の役者の感想の文字数が地獄なので、全体への感想はこの辺で勘弁しといてやります(えっへん)
今回の感想文でうんざりしていなければ、次もお付き合い頂けますと大変嬉しく思います。